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イル・コモンズ 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき
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![]() ▼アクティヴィズム3.0シンポジウム 「〈ストリートの思想〉以降」 [日時] 2009年11月22日(日) 14:30-16:30 [場所] 「アクティヴィズム3.0」展 ヨコハマ国際映像祭新港ピア会場LAB SPACE 「ストリートの思想」の著者・毛利嘉孝氏と、カルチャージャマー集団RLL(ラディカル・レフト・ラフター)をゲストにむかえ、ゼロ年代に登場した「新しい スタイルのアクティヴィズム=ストリートの思想」を回顧しつつ、2010年代の「来たるべきアクティヴィズム」を展望するシンポジウムです。 「二〇〇三年のイラク反戦運動において、中心的な役割をはたして知識人はいない。もちろん大江健三郎を代表とする、岩波・朝日知識人と呼ばれる人たちは積極的に発言していた。こうした伝統的な知識人の影響はなくなったわけではないが、少なくとも現在の若者文化の中ではきわめて限定的である。その代わりに登場したのが、ミュージシャンやDJ、作家やアーティスト、あるいは匿名性の高い無数の運動を組織するオーガナイザーである。こうした人びとは岩波・朝日知識人のようにマスメディアを通じてしか知ることができない有名人ではない。むしろの身のまわりのちょっとした「有名人」であり、目に見える交友関係の延長線上にいる。また政治活動を組織するだけではなく、同時に文化的実践者であることもその特徴だ。こすいた新しいタイプのオーガナイザーを「伝統的な知識人」に対して「ストリートの思想家」とでも呼んでおこう。(...) 「ストリートの思想家」と名づけるのは、彼ら・彼女たちの匿名性とその高い移動性のためである。この新しい思想家たちは変幻自在にストリートに顔を出す。神出鬼没の存在だ。二〇〇三年の反イラク戦争デモ以降の社会運動では、こうした複数の「ストリートの思想家」が重要な役割をはてしていく。(...) ここでいう「ストリート」は、単に在野というこ意味でも「路上」という意味でもない。むしろ社会がデジタル化され電子化され、ますます非物質的な領域に侵食されていることを意識しつつも、その情報の「流れ」や「道筋」を取り返していく思想家なのである。(…)通常、フィールドは囲われた面で捉えられるのに対して、ストリートは線で示される。そこにはとどまるべき場所はなく、常に移動が要請される。ストリートとは、家をもたない人(ホームレス)のものである。だが、かつてニーチェが述べたように、近代人とはすべからく故郷喪失者である。フィールドワーカーとは、ホームレスという例外状態を自らの常態として引き受ける存在を指すのだ。」(毛利嘉孝「ストリートの思想」) いま、映像は、YouTube で、いくらでも好きなだけ見れる。一生かかけても見きれないくらい、たくさんの映像がある。YouTube 以外にも、いつでも・どこにでも映像がある。ケータイの中にも電車の中にもトイレの中にも映像がある。あらゆる場所に映像のある「映像のユビキタス状況」である。しかも、その数は毎マイクロ秒ごとにどんどん増えてゆく。そして、もう誰もそれをとめることができなくなっている。もしYouTube で見ることのできない、ものすごい映像があったとしても、わざわざ横浜まで電車に乗って見にゆくほどの映像があるとは思えないし、たとえ、それを見のがしたとしても、あんまりくやしくない。なぜなら、映像はいくらでもあるし、ものすごい映像は他にもたくさんあるからだ。映像は自分の家や自分の手の中でみるもので、ぼくらは映像をみるために、わざわざ外へ出かけたりはしなくなりはじめている。ぼくたちは、そんな映像の大量消費時代、映像のインフレ時代をすでに生きている。そういう状況のなかで、いま、「国際映像祭」を開催することに、はたして、どれほどのインパクトがあるのだろか?たぶん、もう、ない。 もはや映像に、かつてのようなスペクタクルの力はなく、ぼくらはだんだん映像にうんざりしはじめてきている。そう思ったので、映像はなるべく少なめにし、映像のコンテクストとなるものを多めにした古典的なアーカイヴ・インスタレーションをこしらえた。その「おまけ」程度に映像のあるインスタレーションを口実に、ぼくらが本当にやろうとしたのは、映像には映らない「クラフターたちのエコノミー」や、まだ・ここにしかない「もうひとつの可能なストリート」の解放感や居心地を展示し、予示することだった。展示するのは展開したいからで、予示するのはそれをいつか現実のものにし、コモンとして共有したいから。クラフターたちのエコノミーはこれからもつづくが、ストリートは、あと一週間で、消・え・る。
![]() サラ・ケイン作/飴屋法水演出の「4.48サイコシス」の公演をみてきた。見終わった直後の率直な感想として、まず思ったことは、次のひとことに尽きる。すなわち、今回の舞台は「万事不調な世界の(ほぼ)完璧な残酷劇化」だということである。「ひとことに尽きる」と書きながら、「完璧」ではなく「(ほぼ)完璧」と書かざるを得ないのは、実は開演後の最初の「15分間」を見そこねてしまったからで、見そこねた15分間をちゃんと見ていたら、留保なしに「完璧」と書いたかもしれないが、なにしろ最初の部分を見てないので、判断のしようがない。したがって、これは「不完全な感想」だという事をまずお断りしておく。見そこねてしまったのは、池袋で道に迷ってしまったからである(6:30に池袋駅に着いたのだが、道に迷い、舞台まで45分もかかってしまった)。参考までに書いておくと、「池袋」という街は、駅の「西側」になぜか、「東武」デパートがあり、「東側」に「西武」デパートがある、あの池袋のことで、今からちょうど10年前に「通り魔的な殺傷事件」があった、あの池袋のことである。そういう街で行われた今回のこの公演で、飴屋法水の「グランギニョル劇=残酷劇」が、演劇の最前線に完全復帰してきたことを確信した。毎年3万人以上が「自殺」し、凄惨な「通り魔殺人」が絶えない、このあやうい気象の国に、それは復帰してきた。「メンヘル」や「うつ」が流行する「薄明るい闇」のなか、誰もが「安全・安心」によりかかろうとし、思惑することもなく、信じるものものもない、この不具合の時代に、それは復帰してきた。しかも単独ではなく、当時、十代だった僕らや、当時二十代だった飴屋たちが見て、さんざんうちのめされてきた、寺山修司の「市街劇」や、唐十郎の「テント芝居」、太田省吾の「転形劇場」の、その最良の部分を背中にしょって、このまちがった状況に、それはもどってきた。ただいま、おかえり。「にんげんはここまでおかしくなれるのか、そしてそれでもなお、この身体は平然と脈を打ち続けるのか」という驚きとともに、それはもどってきた。おかえり、ただいま。そう、かつて僕らはそういう芝居をみて、生きのびてきたのだった。そういう芝居をみて、自分がくるっている・ただしいなどとはとても云えなくなり、そのたび僕らはまた右往左往しながら、生きのびてきたのだった。今回の公演をみて、生きるのをやめる前に誰もが一度は見ておいてほしい劇だと思ったし、そう信じている。もっと書きたいことはあるが、まだ公演中なので、いまはまだ書かないでおくことにする。 [追記1] 舞台が終わった後、飴屋さんに、ここに書いたような話をした後、「舞台をみていて、ふと「水の駅」を見ているような錯覚を覚えた」という話をしたら、「もともと今回の公演は「サイコシス」か「水の駅」のどちらかを演出してほしいという依頼からはじまったのだ」という話をきいた。なるほど、演出しなかった方の作品の何かがそこに残っていたのかもしれない。それと、今回のこの舞台をみながら、もしかしたら山川くんのおしりには本当に「黒いしっぽ」がはえてるんじゃないかと思うくらいの、すばらしい通り魔的メフィストぶりだった。あと、音響と照明のエンジニアリングも見事だった。特にヘッドライトの使い方とか。その丈夫なフィラメントは簡単にキレにくいのだ。 [追記2] 舞台が終わった後、「ばかにされてるような気がした」といってる若い男のコがいたが、たぶん映画版「エヴァンゲリオン」のあれとかんちがいしたんだと思う。 [参考] 「健康だ。日差しがいい。わたしはしあわせだ。とおもっているけど、その何軒かとなりのところに、どのくらい苦しい生き方をしているひとがいるか、死ぬほどのくるしい思いをして生きているひとがいるかもしれないし、世界全体の運命を考えてごらんなさい。そういうひとのことや、そういう運命を考えなければ、しあわせだ。ほんとうに人間の運命全体を考えたら、絶対、しあわせでありえないですよ。自分だけが運良く生きていられるなんていうことくらい、いやしいことはないんです。人間全体のために。だから、わたしはしあわせってことは反対なんです。だから、しあわせって云ったことはない。(岡本太郎) 同時代の「映画、アニメ、アート、写真」など、あらゆるジャンルの活動は依然としてまだ、資本主義の「マーケット・エコノミー=市場経済」に支配されているが、そのなかで「クラフター・エコノミー=ものづくりのエコノミー」という、「もうひとつのエコノミー」がいま、静かに、しかし着実にひろがりつつある。それはこういうエコノミーである。(1)「学習、認知、そして、互恵は、少なくとも経済的利益と同じくらい、 クラフターたちの交易の動機となる」 (2)「クラフターにとっては、金銭の取引きよりも、物々交換や会話のほうが 交易の形式において、より重要である。」 (3)「つながり(Links)がクラフターたちのモノの価値を決める。 クラフターたちは何か新しいものを学べるモノを評価する。」 (4)「クラフターが求めるものは、単に買ってくれることではなく、 認知してもらうことである。」 こうした「クラフター・エコノミー」をすでに生きはじめている、remoといるといらとそのなかまたちのようなNPOやアフィニティ・グループは、メインストリームのメディアが云うことや伝えること、世間での評判や業界での評価など、はなっから信用してないし、期待もしてない。ぼくらにとって大事なのは、市場や商品の世界とは無縁の、「親密圏」の中での「つながり」や「認知」の方であって、「アクティヴィズム3.0」の展示はそういうふうに組み立てられている。こうしたエコノミーのちがいが認識されていない限り、なぜあんな展示をするのか、なぜあんな見せ方をするのか、合点がいかないと思う。依然として、市場経済のなかにいる新聞記者や美術批評家たちには分からないだろうが、分からなくてもちっとも構わないと思っている。それよりも、ぼくらを本当によろこばせるのは、こういうことばの方なのだ。 「CREAMに参加している多種多様な作品群の中で、わたしの友人たち「remo + いるといらとそのなかまたち」も、日々の活動=身体性を、そのままそこへ凝縮移植したかのような、「アクティヴィズム3.0」という空間を手がけています。そこにあるのは、自分たちのくらしを自分で作る方法、自分をおいてけぼりにしようとする世界へ介入する方法、人に自分を伝える方法、、グラフティ、カラス、ミシン、草、毛糸、、なんだかいろいろあって、カルチャーショックを受けるかもしれないですが、もともと自分たちのくらしにあったものだったり、忘れていたことだったりする気がします。俯瞰で眺めてみれば、未来のくらしを映す、巨大映像装置になっていて、そこに行方不明の絆のひとつが、撮影されているように思えます。完了形の作品と違って、今起りつつ状況もリアルタイムに映し出す展示=メディアとして、会期中、日々進化している(植物も育ってるし)もよう。」(Letter from Hより) 「開催中の「ヨコハマ国際映像祭」に行ってきました。いろんな展示を観てから、最後にお目当ての「いるといらとそのなかまたち」のブース(新港ピア内)にたどり着けばいいや、期間内にきっと他の日も行くだろうからなんなら今日は軽くチェックだけでもなんて思っていたのですが、結局、 BankART Studio NYKにも寄らず、新港ピアの他の展示も観ずに、「いるといら~」ブースに直行、そのまま気づけば、3時間超を、この「アクティヴィズム3.0」展の中だけで過ごしてました。ブース内を一周みてまわって、それから入り口にもどって、パネルの文章や、貼られてある(壁や作品にもべたべたと貼られている)ポスターやステッカーの文字もぜんぶ読んでいった。こんなに熱心に展示を「読んだ」のは、世田谷文学館での「花森安治」展以来だと思います。なんでかというと、僕が特にこの数年に学んで、観て、体験してきたものの断片でこの空間が満たされていて、その断片それぞれをいままた読み解くと、歴史や文脈がよみがえったり流れ出したりして、それがさらに新たな世界を見せてくれるから。無数の断片が起爆装置になってたり、再起動のスイッチがセットされてる。あのときのあれはこういうことだったんだ、っていう謎解きの楽しさもある。種明かしも、返答もあるし、提案もあるし、宿題もあるし、こっちになってほしいという未来もある。ヨーゼフ・ボイスの言葉をはじめ、ここにはさまざまな箴言が引用されている。グラフティーにあったスローガンも、世界のどこかで誰かが描いた言葉。そういうのは「WE ARE EVERYWHERE」と宣言してるのだろうし、ヨコハマでのこの引用=連帯にまたどこかで誰かがいつか応答するのだろう(NEVER BE DEFEATED!)。ここにあるものはそれぞれの現場で、盗用され、応用されたがっている。展示から展開されたがっている。しかも、このスペースの「作品」は期間中、現在進行形で増殖していくらしい。陳列されてた本を取ってページめくったら、ドイツ語で読めないけど写真だけは全ページ釘付けにされちゃったとか(去年、ドキュメンタリー映画の中で観た、ドイツでの反G8行動の写真集)、油断も隙もありゃしない。また行って観てきます。というか今日は他のブースは、GRLしか観られなかった! あと、「三人デモ」の映像は観た!週末にはイベントもあります。期間は11月29日まで。」 この記事は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。 (TUK TUK CAFE日記より) ![]() ▼げんとうライブVol.1「月と星のボンヤリ」 [日時] 11月23日(月・祝) 19:00- [場所] 中野 Heavysick ZERO (中野区中野5-41-8 B1/B2 Tel:03-5380-1413) [出演] 原マスミ/珠水+谷口マルタ正明 [映像] 山田勇男 [料金] 2,800円(ドリンク代別) 「18時からは、山田勇男さんの8mm映画を映写機を使って上映することになりました。ぜひお早めに会場へ。また、B2フロアでは北冬書房書籍の展示、販売コーナーも設置します。ライブ終了後に出演者関連の書籍や絵はがきなどが当たる抽選会を予定。」 ............................................................ いらは、ヨコハマ国際映像祭の展示とIRAの仕事を同時にこなしながら、こんな映像イベントもやってます。アクティヴィストはほんとに動きが活発です。 ![]() ▼「4.48 サイコシス」 [作]サラ・ケイン [演出] 飴屋法水 「ト書や物語が消失し、病める精神の内的心象が断片的に綴られたサラ・ケインの遺作に、F/T09春『転校生』で衝撃を与えた飴屋法水が対峙。4時48分が無限に反復するかのような一瞬にして永遠の「生」と「死」。演劇、美術、音響、動物店経営など、多様なフィールドを越境して「生命」を凝視し続ける飴屋は、ケインの言葉にいかなる声と体を与えるのか。」 [日時] 2009年11月16日(月)– 11月23日(祝) 19:00- [場所] 東京・池袋 あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター) ............................................................... 飴屋さんが招待してくれたので、大学の講義が終わったら、「アクティヴィズム3.0」の展示を一日休んで、池袋にこの舞台をみにいってきます。「ヨコハマ映像祭」でみごとなインスタレーションをみせてくれた山川くんの舞台パフォーマンスもたのしみです。 [参考] 田口ランディ「4.48サイコシス」は凄いです!!」 「昨夜、「4.48 サイコシス」の初演を観た。……観るというよりも、体験した。演劇は鑑賞するものではなく体験するものである。私は確かに劇場で凄い体験をしたが、あの舞台美術、装置、演出、それについて語るとこれからこの演劇を体験する人たちにはなはだ迷惑であろう。まずは予備知識なしで体験してほしい。ショックだから。マジ、がっつんとやられますよ。だからどう凄いか詳しくは言えない。辛い。この芝居は「精神の病み」を扱っている。「病み」であって「狂気」ではない。どう違うかといえば、私たちにとって「病み」のほうがずっと怖い。なぜなら「病み」は私にとって了解可能な言語構造で成り立っているからだ。「狂気」は完全にあっち側である。了解不可能である。言語が崩壊している。病みは違う。延長線上に自分が見える。(…) 山川冬樹はすごかった。彼とは日本ホーメイコンテストで会ったことがある。ずいぶん前だったが、その頃はまだ線の細い美青年だった。久しぶりに観た山川冬樹はものすごい存在感を放っており、精神の病みに興味なんかない、という人は彼を観るためだけに足を運んでも充分満足できるだろう。恐るべき怪優であった。なにしろ声がいい。その倍音のたっぷりこもった低音は人間以外のなにかを思わせる。精霊か、もののけか、そのような霊的なもの。(…) だから、この恐ろしく病んだ独白の続く芝居に、飴屋さんが倍音をぶつけてきたことはブラボーである。精霊はまだ私たちの血のなかに宿っている。この芝居は視覚的に充分刺激的だが、本質は聴く芝居だと思う。音が重要な役割を果たしており、聴覚への刺激のために視覚が利用されている。末梢神経を刺激するような、どちらかといえば不愉快に感じる音が快感である。音は言語以前であり、音による刺激は感覚を直撃する。目で観たものはすぐに意味付けされて現代用語の基礎知識として消化されるけれども、音はそう簡単に言語化などされず、全方位的に脳を刺激しつつ、観客の陰部をくすぐるのである。目は瞼によって閉じることができるが、耳は開きっ放しであり、場全体を感受している。それゆえ、演出家には音に対する極度なまでの感受性が必要であろう。音に対して飴屋法水は申し分なく凄いこだわりを見せた。さすがだ!」 こういう批評の書き手がいるのが、うらやましい。 ![]() 明日の「文化人類学解放講座」は、1999年前後からはじまった「新しいアナーキストたち」(D・グレーバー)や、「新しい反資本主義」(E・アダモフスキー)による、「新たな帝国」(ネグリ+ハート)に対する反撃と、「もうひとつの可能な世界」の実現にむけた様々なムーブメント(リクレイム・ザ・ストリート、クリティカルマス、フラッシュモブ、G8ホッピング、ラディカル・パペット、ブロック・システム、クラウンアーミー、アルゼンチン革命など)を紹介しながら、小沢健二の「うさぎ!」の続きをよみます。 「いま、僕らがいつも歩いている街のきまりごとは自分たちの手ではなくって、企業、広告主、そしてすでにもう誰かもわからんような「権威」によって決められてしまっている。そこには権力と取引をしない生活者の声はなかなか届かない。いつのまにか、自分たちの街は広告主によって占拠され、みんなのための公共スペースは私有化され、僕ら自身も無意識のうちに、いたるところで規制されつくしている。(グラフィティ・リサーチ・ラボ 2009年) 「ギャラリーに展示される美術作品やその技術に飽きた、中産階級や、メインストリームじゃない人たちからなる批判的な大衆がいる。彼らは、自分たちなりに芸術や技術を欲している。いま欲しがっているんだ。彼らは簡単に吸収できるようなやり方で自分たちに語りかけてくる芸術作品を欲している。ある意味、あらゆる契機が同時に来ているし、アートワールドの転換点をつくりあげている。そして、それはオープンネスへと向かっていく転換点なんだ。(グラフィティ・リサーチ・ラボ 2009年) ![]() 「今日、いるといらとそのなかまたち(※いらはIRAで映画の成功を祈っておりました)は、「ご近所映画クラブ」ワークショップに参加し、みごと、3時間で映画をつくりました。話し合っている最中のホワイトボードがこれです。 【タイトル】 「B.I.Y.★バトル・イン・ヨコハマ 20XX 【ジャンル】 「近未来ノンフィクションドタバタズッコケお茶の間アダルト学園ファンタジーゾンビ娘アクティビズムポエジー」の、超大作(でも7分!)です。 ![]() だだっこ「いるといらとそのなかまたち、3じかんでえいがをつくる」より ........................................................ [参考]映画「バトル・イン・シアトル」(日本未公開) 「完璧は敵だ」(ミシェル・ゴンドリー)ということばに勇気づけられて、はじめてのインディペンデント映画制作にみんなでチャレンジしました。結果としてできたのは、「ぶぇ、まじぃや、でも、もう一回」という、「ねこぢる+青汁」みたいな映画でした(泣)。でも、とりあえず「ジャンルを超える」という「ヨコハマ国際映像祭」の課題だけはクリアできたかもしれません。「先生のふり」なら、いつも大学でやってるので、先生役なら大丈夫かなと思いましたが、やってみると、実にひどいもので、本当の教室での方がよっぽどうまく演技できるなと、そう思いました。明日は「文化人類学解放講座」の日なので、いるは展示活動をおやすみします。
「イルコモンズが、ヨコハマ国際映像の集客数の危機を感じて、オリジナルで「ヨコハマ国際映像ポスター」を何種類か作成した。ここ最近、その非公式ポスターを街で見かけるようになった。
![]() ▲監視カメラが夜の商店街によく似合う。 ![]() ▲まさしく、新港ピアの方向をさしている! ![]() ▲なんと!福祉施設でも発見! (「非公式ポスター」cream ラボブロより) ................................................................... [いる(イルコモンズ)さんの談話] 「うん、たしかに、このポスターをつくったのは僕だけど、いそがしくて、まだ外に貼った記憶はありませんね。昨晩のアリバイならちゃんとありますよ。ことによると、「アクティヴィズム3.0」の会場で配布してるポスターとステッカーを持ち帰ったアクティヴな市民や来場者の方が、自発的に文化芸術支援活動をされたのかもしれないですね。都市の公共空間のなかに、こんなものが堂々と掲示されるとは、さすが、「文化芸術創造都市クリエイティヴシティ・ヨコハマ」ですね。もし、また逮捕するんだったら、僕を逮捕してもいいですよ。それで集客数がひとりでも増えるんだったら、アクティヴィストとして本望ですし、「他人(ひと)に作品を見せる」ための活動とはこういうことだと思いますよ。」 【参考】「クリエイティブシティ・ヨコハマ」とは 「文化芸術の分野にもっとも顕著に現れる人間の創造力は、身の回りにある不安や困難、さらに環境、平和や共存などグローバルな課題に立ち向かう力となります。横浜のような都市にとって、文化芸術は市民生活を充実させるばかりでなく、都市の活性化さらには国際的な競争力にとって大きな効果をもたらすものと考えています。市民生活の豊かさを追求しつつ、都市の自立的発展を目指すためには、横浜の最大の強みである「港を囲む独自の歴史や文化」を活用し、芸術や文化のもつ「創造性」を生かして、都市の新しい価値や魅力を生み出す都市づくりを進めることがふさわしいと考えました。つまり、文化芸術、経済の振興と横浜らしい魅力的な都市空間形成というソフトとハードの施策を融合させた新たな都市ビジョン、それが、「文化芸術創造都市クリエイティブシティ・ヨコハマ」です。」
![]() とうとう、いるといらとなかまたちの展示スペースが、ストリートになりました。 ![]() ストリートといえば、とりもどすもの! 「道路の真ん中に6メートル近い大きなトリポッド(=三脚)を立て、勇気のあるアクティヴィストが宙吊りになるという方法がある。この三脚で自動車は通れなくなるが、人は自由に通れる。これを倒すと、宙吊りになった者が地面に叩きつけられてしまうため、警察も黙って事態を見守るしかない。」(リクレイム・ザ・ストリート・トロント) ![]() ちびこもんずは最年少のトリポッド乗りです。やっほー 「ラボ・スペース」のブログによると、ストリートができたことで、こんなこともあったようです。 ※ブログの最後にでてくる「クシュシトフ・ウディチコのホームレスのための移動住居」の作品集は、いるいらなかまのプレイルームに置いてありますよ。 (だだっこ「通りがうまれた」 (activism3creamブログ)より ....................................................... ![]() 「国際映像祭」の会場とはいえ、そこもまた「公共空間」にはちがいないので、前もってちゃんと「道路占有使用許可証」を掲示しています。この許可証が、いるといらとなかまたちの「DIY工作」だと気がつくまで、警察も黙って事態を見守るしかありません。
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