「誰もが「右肩上がり」の時代は終わったと言う。だがそれにしては騒々しくないか。なにかしなくてはならないことになっていて、「革命」とか「自由」とか、もっと別のもののために使われてきた言葉が気ぜわしげに使われる。「危機」や「国家目標」が語られ、それらに「新世紀」といった言葉が冠せられる。十分に多くの人たちは「消費を刺激する」といった言葉の貧困さや「人間の数を増やす」という発想の下品さに気づいている。しかしそうしないと「生き残れない」とか言われて口をつぐんでしまう。政治的な対立と見えるものも「経済」をよくする手段について対立しているだけだ。私たちに課題があるとしたら、それはそんなつまらない状態から抜けることである。
そうして訪れる世界は退屈な世界だろうか。退屈でかまわないと私は思うが、退屈や停滞という言葉が気にいらないなら、落ち着きのある社会と言い直してもよい。そして退屈になった個々の人たちはすべきことをするだろう。
いま考えるに値することは、単なる人生訓としてでなく、そう無理せずぼちぼちやっていける社会を実現する道筋を考えることだ。足し算でなく引き算、掛け算でなく割り算することである。もちろんそれは、人々が新しいことに挑戦することをまったく否定しない。むしろ、純粋におもしろいものに人々が向かえる条件なのである。
繰り返すが、この社会は危機ではないし、将来は格別明るくもないが暗くはない。未来・危機・目標を言い立てる人には気をつけた方がよい。」(
立岩真也「つよくなくてもやっていける」(「21世紀の入り口で」朝日新聞 2001年1月11日)
いまからちょうど10年前の新春記事。いまでもそのまま通用する話だと思う。いくつか違いがあるとすれば、リーマンショック以後の現在、「気ぜわしさ」は「ヒステリー」となり、「言葉の貧困」と「発想の下品さ」はすでに「卑しさ」の域に達しているということだろう。「つまらない状態」は依然として続いている。さらにもうひとつ違いがあるとすればそれは、その「つまならさ」をごまかすためのツール(iPhoneとかTwitterとか)がやたらと増えたということだ。そして、いまや惰性化した「つまらない状態」を利用して一発あてようとする連中もいる。そんななか、もしまだ私たちに課題があるとすればそれは、「景気回復」や「成長戦略」の空しい号令をくりかえすしか能のない連中のいうことなどにまどわされず、ほ・ん・と・う・に・自・分・が・お・も・し・ろ・い・と・思・う・こ・とに、わき目もふらず向かいあえるかもしれない、このチャンスを活かすことだろう。