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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼ぼくらは「暮しの手帖」に「たたかえ」とはいわない
 ▼ぼくらは「暮しの手帖」に「たたかえ」とはいわない_d0017381_2161141.jpg
 「「今の「暮しの手帖」にジャーナリズムはあるのか、それともないのか」と聞かれて、「いわゆる昔ながらのジャーナリズムはありません。しかし新しいジャーナリズムはあると思う」と答えた。「君の言う新しいジャーナリズムとは何か」と聞かれたので、「悪人探しや間違い探しではなく、反権力でもなく、政治的主張によって存在を表すものでもなく、正しさの白黒をつけることでもなく、今日一日をあたたかく安らかに楽しく過ごすためや、少しでも今日の暮らしを美しくするための知恵や工夫を発見して、わかりやすく面白く伝えることです」と答えた。そうしたらその人は「花森安治の暮しの手帖も終わったな」と言って去っていった。今日あったほんとうの話です。」(松浦弥太郎「今日あったこと」2011年12月14日※このコンテンツは現在ご覧いただけません)

 「今日、暮らしの手帖の編集長に向かって問いかけた人がいるそうです。「今の「暮しの手帖」にジャーナリズムはあるのか、それともないのか」と。答えは、編集長の松浦さんのfacebookで読めます。個人的にはショッキングな内容です」(BlessMoment Hirano 2011年12月14日のツイート)
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 今年の3月15日のこと。「いま、福島で荒れ狂っている原発をみていて、今年、生誕100年をむかえる、花森安治のこの文章を思い出した」という書き出しで、こんな文章を書いた。それは花森安治の長い引用からはじまる。

 もうけてなにがわるい、という、そのとおりだ。
 他人の不幸を踏み台にして肥ったりせず、
 人間の弱点につけこんで売り上げをのばしたりもせず、
 ぼくらの暮しに役立つ いい品だけを作ったり、
 売ったりしているかぎり、もうけてわるいはずがない。
 そんなふうに考えて、仕事をしている会社や人間だったら、
 大いにもうかるのが、ほんとうなのだ

 しかし、いま、そんな会社や人間が、
 どれだけあるというのか。

 ひとの暮しに役に立たなくても、
 人の暮しをダメにすることがわかっていても、
 売れさえしたら それでいい、
 売れるためなら、どんなことでもする、
 そんな会社や人間ばかりだ。

 そんな会社や、そんな会社の後押しをした政府が、
 いま、日本の繁栄をつくりあげてやったのは、
 じぶんたちだ、と胸を張っているのだ。

 そうなのか、ほんとうにそうなのか。

 それなら、見るがいい。
 そんな企業を後押しにしてきた政府よ、
 見るがいい。

 誇らしげに、君たちが作り上げたという、
 その世の中を 目をそむけないで、
 はっきりと見るがいい

 繁栄とは、なにか。
 ゆたかな暮しとは、なにか。

 君らが狂気のように作り出す工場の煙で、
 ぼくらの空は、いつも重たく曇ってよどみ、
 君らが平然と流し続ける廃液のために、
 ぼくらの川と海は、いつも暗く腐って流れようとはせず、
 君らの作ったものの出すガスのために、
 ぼくらの木と草は、夏に枯れて、春にも花をつけない。

 君らのために、ぼくらのまわりから、緑は失われ、
 君らのために、ぼくらはいま、ちっぽけな土地に、
 ちっぽけな家を建てる望みさえ絶たれ、
 君らのために、ぼくらはいま、
 食卓にのぼせる魚にも毒はないかと心を痛める

 しかし、悔しいことだが、
 こんなひどい世の中にしてしまったのは、
 君らだけの罪ではなかったのだ。
 悔やんでも悔やみきれないのだが、
 君らが狂ってしまって、血眼になって、
 もうけだけに走るのを、だまって見ていて、
 止めようとしなかった、ぼくらも狂っていたのだ。

 ぼくらは、もうずいぶんと長く生きた、
 ぼくらは、もういい、
 ぼくらは、もうどうなってもいいのではないか。

 ぼくらは、自分のこどものために、
 そのまた、こどものために、
 ぼくらだけは、狂った繁栄とわかれて、
 そこへ戻ろう、そこから出直して、
 ぼくらは、じぶんのつくった罪を、
 自分の手であがなってゆこう。

 ぼくらの暮しをおびやかすもの、
 ぼくらの暮しに役立たないものを、
 それを作ってきたぼくらの手で、
 いま、それを捨てよう。
 花森安治

 ▼ぼくらは「暮しの手帖」に「たたかえ」とはいわない_d0017381_25281.jpg
 「この原発が「安全」だと云い続けてきた東電の幹部や役員たちよ、それなら、見るがいい。誇らしげに、君たちが作り上げたという、この怪物たちから、目をそむけないで、はっきりと見るがいい。そんな東電を後押しし、いまだに「発展」だ、「景気回復」だ、と云い続けている政府と政治家たちよ、見るがいい。この怪物たちを見るがいい。発展とは、なにか。安全な暮しとは、なにか。いま、福島で荒れ狂っているこの怪物が、もうこれ以上、毒をまきちらすのをやめ、それをつくった者たちの手で、ひとつ残らずこわされ、捨てられ、二度と使いものにならない廃物と化すことを願わずにいられない。そして、こんな怪物をつくることをゆるしてきてしまった僕らは、その罪をあがなわなければならない。そう、ぼくらは、もういい。ぼくらは、もうずいぶんと長く生きた。ぼくらは、こどもたちと、そのまた、こどもたちのために、狂った発展や生き方とわかれて、こどもたちの暮しをおびやかすもの、こどもたちの未来に役立たないものを、それを作ってきたぼくらの手で、いま、こわそう。」(イルコモンズ「この怪物から、目をそむけないで、はっきりと見るがいい」2011年3月15日)

 3.11以後、この国の「暮し」は変わった。とりかえしのつかないくらい大きく変わってしまった。だから、「暮しの手帖」も変わるだろうと思った。3.11以後、「暮しの手帖」はなにを語りはじめるだろうと思い、それを待っていた。ずっと待っていた。いまも待っている。そのあいだに「暮しの手帖」ではなく、「通販生活」が「原発国民投票」をよびかける特集号をだした。「暮しの手帖」はいまだに沈黙したままである。「花森安治の暮しの手帖」はもちろん終わっている。花森が死んだときにそれは終わったのだ。しかし花森のもとで、花森に怒鳴られながら一緒に仕事をしてきた編集者たちが、それを受け継いだ。イラク戦争が続くさなか、「暮しの手帖」は「あなたにとって大切なものはなんですか?」と読者に問いかえ、「暮しの手帖」にとっていちばん大切なものとして、花森がこしらえた「一銭五厘の旗」をあげ、そのあたらしい旗をつくって誌面に大きく掲げ、反戦の意思表示をしてみせた。

 ▼ぼくらは「暮しの手帖」に「たたかえ」とはいわない_d0017381_2315095.jpg
▼「暮しの手帖」2004年夏号

 当時、自分も「暮しの手帖」の別冊に文章を書かせてもらい、別の雑誌のために書いた反戦の文を、当時、編集長だった大橋鎮子さんが「編集者の手帖」に引用してくれたりもした。つまり「花森安治の暮しの手帖」は終わっても、「暮しの手帖」には、花森の魂がしっかりと宿っていた。では、いまの「暮しの手帖」はどうなのだろう。まだそれはわからないが、すくなくとも自分は「暮しの手帖」に「この怪物から、目をそむけないで、はっきりと見るがいい」というつもりはない。自分は「暮しの手帖」に「たたかえ」とはいわない。ぼくらは自分でたたかう。ぼくらは、自分たちの暮しをおびやかすものと自分たちでたたかう。こどもたちの未来に役立たないものを、ぼくらは自分たちの手でこわそうと思う。なぜなら、それが「花森安治の暮しの手帖」からぼくらが学んだ「ほんとうの〈民主々義〉」だからだ。

 「さて、ぼくらはもう一度、倉庫や物置きや机の引出しの隅から、おしまげられたり、ねじれたりして錆びついている〈民主々義〉を探しだしてきて、錆びをおとし、部品を集め、しっかり組みたてる。民主々義の〈民〉は庶民の民だ。ぼくらの暮しをなによりも第一にするということだ。ぼくらの暮しと企業の利益とがぶつかったら、企業を倒すということだ。ぼくらの暮しと政府の考え方がぶつかったら、政府を倒すということだ。それがほんとうの〈民主々義〉だ。」(花森安治「見よ ぼくら 一銭五厘の旗」)

 くしくも、いま世界では、倉庫や物置きや机の引出しの隅から、おしまげられたり、ねじれたりして錆びついている〈民主々義〉を探しだしてきて、錆びをおとし、部品を集め、しっかり組みたてることがはじまっている。そして、それがひろがっている。かたや日本では、花森の魂は「暮しの手帖」の読者とそのこどもたちに受け継がれ、あたらしい「暮しの手帖」をうみだしている。原発とたたかうラッパーやおかんたちがそれをひきつぎ、DIYで、自分たちの「暮しの手帖」を編みはじめている。

 ▼ぼくらは「暮しの手帖」に「たたかえ」とはいわない_d0017381_2154561.png
▼ECD「暮しの手帖」  ▼ODZ「原子力のない美しい暮しの手帖」

 DIY、それもまた花森と「暮らしの手帖」が僕らに教えてくれたものだ。だから、ぼくらは「暮しの手帖」に「たたかえ」とはいわないし、いう必要もない。ぼくらは自分たちでたたかうからだ。ぼくらは、ぼくらの暮しとぶつかる原発とたたかう。ぼくらは、ぼくらの暮しとぶつかる原発を自分たちの手でこわす。「原発のいらない美しい暮し」のためにたたかう。それが、花森が教えてくれた「ほんとうの〈民主々義〉」だ。

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[参考] 「いま僕は、花森安治のことを思い出しています。「見よぼくら 一銭五厘の旗」などの文で、戦争を知らない子供たちである僕らに、戦争を教えてくれた花森安治です。その花森が、もしいま生きてたら、有事法制のことをどう思うでしょう。ふたたび日本が戦争をする国になろうとしているのを知ったら何と云うでしょう。たぶん花森は、それこそ気も狂わんばかりに怒りだし、僕らを怒鳴りちらすに違いありません。ありがたいことに僕らはまだ生きていて、これから有事法制反対のデモに行くこともできれば、自分でこしらえた旗をあげて抵抗を示すこともできます。でも死んだ花森にはもうそれはできません。そして有事法制に対して怒りのことばをなげつけることもできなければ、過去に書いたものを読んでくれということすらできません。だから、ここでは、僕の考えやことばよりもまず、そんな花森安治のことばを、もういっぺん虚心坦懐に書き写し、書き継ぐということからはじめたいと思うのです。花森はこう書いています。
 ...戦争がすんだ/戦争がない ということは/それはほんのちょっとしたことだった/たとえば夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった/たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった/生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ/戦争には敗けた しかし/戦争のないことは すばらしかった 「見よ ぼくら 一銭五厘の旗」
 これが花森の思考と行動の原点です。花森の戦後はひたすらこの「暮し」をまもりぬくことに捧げられました。公害をまきちらす企業を告発し、腐敗した政府を弾劾することを花森は決してやめませんでした。ひとえにそれは、戦争によって一度奪われ、終戦によって再びとりもどした、ごくあたりまえの庶民のふつうの「暮し」をまもるためでした。」(小田マサノリ「殺すなを殺すな/憲法第九条は破壊されたのではない、恥辱のあまり自ら崩れ落ちたのだ」)
by illcommonz | 2011-12-16 02:36
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