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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼「週刊文春」のへっぽこ記事
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「反原発デモ 野田官邸にのり込んだ活動家11人の正体
 刺青ストリッパー、「ベ平連」礼賛学者、パンクロッカー…」

 (「週刊文春」 2012年9月6日号)

 新しい号がでて、書店や売店の本棚から消えたので、このタイミングで(そうしないと余分に売れてしまうから)「週刊文春」の上記の記事について、ひとこと苦言を記しておこうと思う。

 まず、取材姿勢とその背景について、ミサオ・レッドウルフのツイートから。

Misao Redwolf@MisaoRedwolf
 「名前は控えますが文春の記者は、執拗なまでの勢いで私をはじめ何人かの反原連メンバーに取材をせまってきた。媒体の性質上警戒して断っていたら、住所をどうやってか調べて個人宅近くにまで来られた人も。私も幾度ともなく執拗に迫られた。しまいには「取材受けないと周囲の証言で書きます」と脅しも。」

 「取材は断り、受けていません。あの記事は取材無しの記事です。まともな記者はまずプレスに取材要請、それからこちらで受けるかどうか判断してセッティングします。文春の記者はその段取りもせず、現場で待ち伏せて執拗に取材をせまる異常さでした。」

 「私が仕事名(アーティストネーム)で活動しているのは、戸籍名が珍しい名字なので実家の判別もつきやすい為なのです。まだ小さい甥達が特に心配で。取材も受けてないのに何をどう調べたのか、実家にまで電話をかけた記者を軽蔑します。」

 一方、記事をよんだ方たちのツイートは次のとおり。

メリー桜/ota miyuki@merrysakura1
 「週刊文春。野田と面談した反原連の素性についての記事。感想は「くだらない」彼らの素性がどうだとか、抗議には関係ない。ただ、原発をなくしたいから必死で頑張っているだけだと思っているから、文春の記事如きで惑わされないよ。」

mipoko:NoNukes&NoFur@mipoko611
 「文春の反原連についての見出しへの第一印象は、だから?しかなかった。怒りより先に、その見出しが世に出るまでに編集に関わった人間全てへの軽蔑と、日本では一応高級雑誌の作り手がそのレベルかと、落胆と泣き笑いが先に来た。残念過ぎて腰が砕けそうだ。」

fareastjazz affair@fareastjazz
 「ようやく、週刊文春のデモ&反源連叩き記事を立ち読みチェック。 橋爪大三郎のコメント酷過ぎ。こんな人だったっけ?完全に終わってるな。反原連については、ネガティブ・キャンペーンのつもりなんだろうけど、あまり効果なさそう。逆に知名度上げただけかも(笑)」

chibarei NO NUCLEAR @CHIBAREI_DURGA
 「コンビニで、見てきた。週刊文春の、反原連ネタ。くだらない、タトゥー入ってるとかどうでもいい関係ない話ばっかー。内容も突っ込みどころ、こっちこそ満載だよね。櫻井よし子で〆とか、酷いオチw」

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▼記事本文中の見出し

 見出しは、「正体」とか、「怪しげな人脈」とか、いかにもスキャンダラスな書きっぷりだが、肝心の記事はというと、「だから?」とか、「くだらない」と一蹴されてしまうようなスカスカな内容である。参考までに、橋爪大三郎、櫻井よしこのコメント(抜粋)は次のとおり。

 「デモが直接に政治的効果を求めることは危険です。なぜならデモに参加する人は多数でも、国民の中では絶対的少数なのです。絶対的少数が、最も効率よく政治的インパクトを持つ手段はテロです。デモも同様の効果を持つとしたら、少数派はみなデモに走り、言論の自由の範囲を逸脱する。議会を飛び越して首相に狙いを定めている点は、天皇を直接動かそうとした二・二六事件と似通っている。今回が危険な前例になるとは思いませんが、危険な前例への一歩であるとは言えるでしょう。」(東京工業大学大学院教授 橋爪大三郎)

 「野田首相がデモ隊の"代表"を名乗る人々に面会したことは、日本の民主政治の健全性を守る点で大きな問題を残したと考えます。第一に、首相官邸に乗り込んだ十一人は、本当に民意を代表する人々なのか。そもそも日本は代議制民主主義の国です。デモ隊の人々は首相への面会強要ではなく、一票を投じることで政権への意志表示をするのが正道です。首相みずからデモ隊の代表を名乗る人々の面会要請に応じたのは、この民主主義の基本的な手続きを無視した、実に愚かなことです。」(ジャーナリスト 櫻井よしこ)

 このコメントをよめば、はじめから「ネガティヴ・キャンペーン」をねらった記事だということは一目瞭然で、それぞれのコメントについていえば、「非暴力」を原則としているデモを「テロ」や「クーデター」につながるものだとして「危険」だとする話には無理があるし、11人の誰も自分たちが「民意を代表する」者だなどとは云ってない。つまり、どちらのコメントも牽強付会で、極論に走りすぎてるきらいがある。「週刊文春」のデスクが、どうしてこんな、できそこないのへっぽこ記事をボツにせず掲載したのか理解に苦しむ。こんな記事では、それこそ読み手に「そのレベルか」といわれ、「軽蔑」されても、返すことばがないはずだ。

 最後に、自分に関する記事についても、ひとこと。

 「会場で毎回ドラムを叩き続けているのは、文化人類学者のイルコモンズこと小田マサノリ氏(46)。「〇八年の洞爺湖サミットのとき、札幌で反G8のデモをして逮捕されています。車に乗って音を出すのがいけなかったみたい」(知人)。野田首相との面会後の記者会見では、今のように間接民主主義が機能してない場合は、名もなき民が主人公だということを思い出させる上で一定の意味があったと胸を張っていたが。だが、デモ会場で声をかけると、「取材は受けない!」と背中を向け、名刺すら受け取ってもらえなかった。」

 取材を断ったのは事実だが、「取材は受けない!」というような云い方をした覚えはない。自分は相手が総理であろうと記者であろうと、初対面の人間にはつとめて丁寧なことば遣いをするように心がけている。それに、もしこの記者が、デモのはじまる直前ではなく、この日のデモに最後まで同行し、デモが終わった後に取材を申し出ていたなら、礼儀として、名刺くらいはちゃんと受け取ったと思う。また、この記事の冒頭では、〇八年の反G8デモでの「逮捕」のことが書かれているが、おそらくこれは、「逮捕」ということから連想されるネガティヴなイメージを読み手に与えるための印象操作だろう。さいわい自分は、逮捕のことが人に知られても困ることはなにもないのだが、人によってはこれで不利益をこうむることだってあるはずだ。この記者はそれを承知の上でこれを書いたのだろうか、それともこれは、取材を断ったことへの仕返しだっただろうか?もしそうなら、こちらも仕返しとして、そのときの「逮捕」の一部始終と、その後の「釈放」および「会見」の映像を、「カウンター・ネガティヴ・キャンペーン」として公開しようと思う。


【逮捕】


【釈放】


【会見】

 見よ、呆れよ、そして、可笑しければ笑いたまえ、泣いても笑っても、これがイルコモンズの「正体」だ。

-----------------------------
[追記]
 さらにもうひとつ別の仕返しとして、この「週刊文春」の記事を、マスメディアが「アクティヴィズム・フォビア」をどのようにつくりだしているかということを大学で講義するときの「教材」として使うことにしよう。

 「長いあいだ、この国には、社会運動やデモに対する嫌悪感や、それをうとましいと思う風潮があった。それがこの一年あまりのあいだに、すこしづつ変ってきている。あるいは、もう大きく変ってきているかもしれない。そして、おそらく、その流れは決してとまるものではない、というふうなお話をしました。僕はそれを「アクティヴィズム・フォビア」ということばで呼んでいます。「アクティヴィズム」とは「社会運動」のことです。「フォビア」は「嫌悪症」のことですね。これは海外と比べてみると、はっきり分かります。いまのご質問は、「アクティヴィズム・フォビア」とよばれるものは、いつから生まれて、どのようにつくられてきたのか?これはマスメディアやメディアのみなさんを前にして云うのは、気がひけるのですが、やはり政府とメディアがこのネガティヴなイメージをつくりあげてきたと思います。」(イルコモンズ「首都圏反原発連合記者会見」2012年8月22日より抜粋)

■メディアと市民の絶望的な「距離」
 「僕が個人的に抱いている悔悟を敢えて言えば、今の日本のテレビ報道の現場を指揮しているデスク、キャップ、編集長クラスに、「失われた10年」のなかで刷り込まれてしまった大衆運動軽視、蔑視の感覚に色濃く影響された世代が多いということがある。換言すると、スリーマイル島、チェルノブイリ、JCO事故直後に報じてきた異議申し立ての動きの価値を、これらの世代に継承できなかった僕らの世代の責任ということになる。
 後続世代の大衆運動、社会的な異議申し立てに対するアレルギー、嫌悪感、当事者性の欠如には凄まじいものがある。デモや社会運動という語にネガティブな価値観しか見出せなくなっているのだ。これはおそらく日本的な特殊現象であり、かなり異様な事態である。欧米では、言うまでもなくデモは権利である。
 だがこういう僕らの同僚たちが「アラブの春」だの、エジプトのタハリール広場の大衆行動については、ポジティブな評価を与えているのである。ニューヨークのウォール街占拠運動にさえ「あれは格差拡大に反対する99%の異議申し立てだ」と理解を示す。だが自分たちの足元で人々が繰り出すと、そこに連続性を見出すどころか、「距離」を置く同僚・後輩たちがいるという冷徹な現実がある。
 既成メディアに対する人々の不信感は、この「距離」に由来する。6月29日に僕らは首相官邸前で大飯原発の再稼働反対デモの取材をしていたが、「お前らは取材してもどうせ放送なんかしないのだろう」「帰れ!」という言葉を浴びた。同行したカメラマンは必死に罵声に耐えていたが、ニューヨーク・タイムズのマーティン・ファクラー東京支局長がニヤニヤしながらそれを見ていた。「メディアに対して厳しいね」と彼は言っていたが、それには理由があることを彼は知っている。日本での取材歴が長く、日本語も器用に操る彼は、近著『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』の中できわめて本質的な指摘をしている。
 〈私が12年間、日本で取材活動をするなかで感じたことは、権力を監視する立場にあるはずの新聞記者たちが、むしろ権力側と似た感覚をもっているということだ。似たような価値観を共有していると言ってもいい。国民よりも官僚側に立ちながら、「この国をよい方向に導いている」という気持ちがどこかにあるのではないか。やや厳しい言い方をするならば、記者たちには「官尊民卑」の思想が心の奥深くに根を張っているように思えてならない〉
■「官尊民卑」がもたらす取材感覚の欠如
 悲しいかな、ファクラー氏の指摘に反論するべき論拠が僕にはない。こうした「官尊民卑」の思想は、市民の集会・デモを扱う姿勢に端的に表れている。つまり、いつのまにか警備する側の立場に報道機関側が同調してしまっていなかったか。まず参加人数にこだわる。主催者発表と警察発表を並列的に報じて恥じない。逮捕者が出ても、「公務執行妨害で2名が逮捕されました」で終わり、その逮捕が不当か妥当かを報じようとする姿勢がハナからない。そもそも逮捕を疑ってかかる発想そのものが取材記者たちから失われてしまっているのである。
 ましてや警備体制のあり方について検証するような姿勢などほとんど見当たらない。「車道にはみ出さないでください。歩道に留まって立ち止まらないでください」と警察が連呼し続ける。ところが歩道から溢れるほどの人数が集まってしまっているのだ。そうすると、歩道に押し込める警備方針の方が危険になる。実際、車道に人々が溢れだしたことが何度かあったが、それはいわば、けが人が出るおそれが避けられた「緊急避難」だったとも言える。あるいはデモ・集会参加者らの顔を警察の警備・公安担当が実に大っぴらにビデオ撮影している。明らかに肖像権の侵害だ。だが、そのような風景に疑問を感じる記者がもういなくなっているのだ。
 (...) そのことに既成メディアであるテレビは気づいていただろうか? それまでの10年余りの報道の日常感覚に埋没して、「どうせデモやるああいう人たちでしょう」というような慣性・惰性に支配されていなかったか? 」(金平茂紀 「日本のテレビ局はなぜ反原発の動きを報じ損ねたのか?」(朝日新聞 2012年9月7日より抜粋)

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▼「TVなんて信じちゃダメ!」
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by illcommonz | 2012-09-20 02:12
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