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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼「メディアと芸術」オンライン・テキスト2
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「インターネットを使った新しい分散型・参加型学習活動が可能になっているこの先、教育のありかたが変わり、知的権威、文化的権威の源泉は取って代わられることになるだろう。1000人の学生を週二回、講義室に詰め込んで、終身在職権のある教授が体系化した凝縮された知識を受け取らせる従来のやり方は、意味を失っている。いまや大学の講義はデジタル化して記録し配布できる時代だ。知識の創造、消費、伝達が過激なまでに民主化されている。知識の権威が揺らいでる。しかし知識の質が下がっているのではないかという疑問もわく。知的権威がなくなったら、世界に関する知識が正しいことをどうやって証明するのだろう。大きな知性、ビッグマインドがすべて消えてしまった、集合的な思考はどのようなかたちで残るのだろう。半面の真理やうわさ、あてこすりがはびこり、世界は予見できないカオスに向かうのだろうか。」(ニコ・メレ「ビッグの終焉」2013年)

「電子メディアは、時間と場所の特別さを破壊する。テレビやラジオや電話は、かつて私的だった場所を、外部からアクセス可能なものにすることによって、公的な場所に変えてしまう。またカーステレオやウォークマンのようなパーソナルな音響システムは、公的な空間を私的な空間にする。そのようなメディアを通じて、いまや、いろんな場所で起きることが、私たちがいる至る場所で起きている。つまりそれは、私たちがもはや特別の場所にいるわけではないということである。つまり、かつては、まったく異なっていた場所のそのほとんどにテレビやラジオや電話があるため、いまやどこも類似した場所になっている。かつては特別な場所で手に入れる経験とそれに依存していたことが、電子メディアによって変えられてしまったのである。いまや、人がどこにいるかということは、その人が誰であるかということにあまり関係がない。なぜなら、人がどこにいるかということは、人が何を知り、何を経験しているかということと、いまやほとんど関係がなくなっているからだ。」(ジョシュア・メイロウィッツ「意味を失う場所;電子メディアが社会的行動におよぼす影響」)

「今日の労働者によって、コミュニケーションとソーシャルメディアは、彼らを仕事から解放すると同時に、仕事に縛りつけているように思われる。スマートフォンやワイヤレス接続があれば、どこにでも行くことができるが、どこに行っても変わらず仕事をし続けることになる。それが意味するのは、どこへ行こうがつねに仕事中であるということなのだ。メディア化は、労働と生活の区別をますますあいまいなものにしている主な原因なのである。」(アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート「叛乱」2012年)

「どんなものにも、その置き場所がある、そこに置きたまえ」という言葉ほど、新しいテクノロジーの精神から遠くはなれたものはない」(マーシャル・マクルーハン「メディア論」1964年)

「私たちは世界のどの地点とも連絡がとれ、世界のどこからでも情報の検索ができる電子時代の遊牧民である。電子のおかげで、私たちが世界中のどこにでも姿を現すことができることは有益で、しかも不可避であるが、危険な副作用の懸念もある。つまり、私たちには、テクノロジーの革新が社会、政治、文化にもたらす変化に適応する時間が与えられていないのである。生活を変え、新しい社会の習慣をつくりだす猶予が与えられないまま、その影響をもろにかぶってしまうのである。つまり、革新がもたらす変化に対処しようにも、私たちはつねに準備不足の状態に置かれる事になる。」(デリック・ドゥ・ケルコフ「電子時代の新たなリアリティを探求する文化の皮膚」1995年)

「インターネットの空間はニュートラルではない。そこには境界もなければ、安定もしておらず、統一されてもいない。それは生きていて、たえまなく動き、自立的なシステムであるかのようにふるまう。インターネットによって、私たちの時代遅れの政治意識は一掃されてしまうだろう。インターネットの到来によって、私たちは、私的であると同時に公的、個人的であると同時に集合的である最初のメディアを持つに至った。政治的には「集合知」という新しい秩序と社会行為にふさわしいシステムがどのようなものか、まだはっきりしていない。なんであれ、インターネットに君臨する秩序が、現実世界で君臨することになるだろう。その秩序が地球をのっとることのないように、いまできることを考えなければならない。」(デリック・ドゥ・ケルコフ「電子時代の新たなリアリティを探求する文化の皮膚」1995年)

事故を起こさないテクノロジーの発明はない。テクノロジーが発明されるたびに、特殊な事故が生み出される。」(ポール・ヴィリリオ)

「蒸気船や帆船を発明するとは難破を発明することであり、列車を発明するとは鉄道の脱線事故を発明することである。自家用自動車を発明するとは高速道路での玉突き事故を発明することなのである。飛行機や飛行船を離陸させるとは、空の惨事を、墜落事故を発明することなのだ。」(ポール・ヴィリリオ)

「環境は目にみえない。その基本的な原理、全体的な構造、そして、包括的なパターンを知覚することはむずかしい。」(マーシャル・マクルーハン「メディアはマッサージである」)

「文化も宗教もすべてテクノロジーの枠のなかにあります。私たちはテクノロジーを利用しているのではなく、私たちはテクノロジーのなかで生きているのです。それはすでに空気のような存在で、もはや意識されないのです」(ゴドフリー・レジオ「生活の質」)

「インチキで人をまるめこむ計算 とてもとてもふしぎな、それでいてきわめて日常的なひとつの秘密があります。それは時間です。時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、その時間にどんなことがあったからによって、一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ぎゃくにほんの一瞬と思えることもあるからです。なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。このことを誰よりもよく知っていたのは、灰色の男たちでした。彼らほど、一時間の値打ち、一分の値打ち、いや、たった一秒の値打ちさえ、よく知っているものはいませんでした。ただ彼らは、ちょうど吸血鬼が血の価値を知っているのとおなじに、彼らなりの時間の大事さを理解し、彼らなりの時間のあつかい方をしました。彼らは人間の時間にたいして、ある計画をくわだてていました。灰色の男たちは目立たないように大都会の人々の暮らしの中にしのびこんでいました。そして、一歩一歩だれでも気付かれずに、日ごとに深く食い込んで人間の財産に手を伸ばしていました。
「私は時間貯蓄銀行からきました。あなたは、あなたの人生を浪費しておいでで。あなたは自分の時間を無駄づかいしてます。倹約をはじめようという気持にはなりませんか。わたしどもは、時間貯蓄銀行は、あなたの時間をあずかっておくばかりじゃなく、利子も払うんです。時間の倹約のしかたくらいご存知でしょう。たとえば、仕事をさっさとやって、よけいなことはすっかりやめてしまうのです。ひとりのお客に一時間もかけないで、15分ですます。むだなおしゃべりはやめる。年寄りのお母さんと過ごす時間は半分にする。安心しておまかせください。これであなたは時間貯蓄銀行の新しい会員になられたわけです。あなたはいまや、ほんとうに近代的、現代的な人間のなかまに入られたのです。」 こう言うなり、灰色の男は灰色の自動車にのりこんんで、走り去りました。そのあとまもなく、きょうはじめての客がやってきました。フージー氏はぶすっとして客をあつかい、よけいなことは一切せず、ひとことも口をきかないで働きました。ほんとうに1時間ではなく、20分で仕上がってしまいました。それからはどの客にたいしてもそうでした。こうなると仕事はもうちっともたのしくありません。でもそんなことはどうでもいいのです。毎日毎日がますますはやく過ぎてゆくのに気がついて愕然とすることはあっても、そうすると、ますます時間を倹約するようになるだけでした。
 おなじことが、大都会のおおぜいの人に起こっていました。そして、いわゆる時間節約をはじめる人の数は日ごとにふえてゆきましあ。そしてその数がふえればふえるほど、本当はやりたくないが、そうするよりしかたないという人も、それに調子を合わせるようになりました。毎日毎日、ラジオもテレビも新聞も、時間のかからない新しい文明の利器のよさを強調し、ほめたたえました。そういう文明の利器こそ、人間が将来、ほんとうの生活ができるようになるための時間のゆとりを生んでくれるというのです。ビルの壁面にも、広告塔にも、ありとあらゆるバラ色の未来を描いたポスターがはりつけられました。
 時間節約こそ幸福への道、時間節約をしてこそ未来がある。きみの生活をゆたかにするため時間を節約しよう。
 けれども、現実はこれとはまるっきりちがいました。たしかに時間節約家たちは、いい服装はしていました。お金もよけいに稼ぎましたし、使うのもよけいです。けれど彼らは、ふきげんな、くたびれた、おこりっぽい顔をして、とげとげしい目つきでした。彼らは余暇の時間でさえ、すこしの無駄もなく使わなくてはと考えました。ですからその時間のうちにできるだけたくさんの娯楽をつめこうもうと、もうやたらとせわしなく遊ぶのです。だからもうたのしいお祭りであれ、厳粛な祭典でさえ、ほんとうのお祭りはできなくなりました。夢をみるなど、ほとんど犯罪も同然です。彼らがいちばん耐え難く思うようになったのは、しずけさでした。彼らは自分たちの生活がほんとうはどうにかなってしまったのを心のどこかで感じ取っていましたから、しずかになると不安でたまらないのです。ですから、しずけさがやってきそうになると、そうぞうしい音をたてます。けれでもそれは、子どもの遊び場のようなたのしげなさわぎではなく、きちがいじみた、ふゆかいな騒音です。この騒音は日ごとにはげしくなって、大都会にあふれるようになりました。時間をけちけちすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。自分たちの生活が日ごとにつめたくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。けれども、時間とはすなわち生活なのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそってしまうのです。
(ミヒャエル・エンデ「モモ」1973年)

「インターネットへのアクセスは基本的な権利であると、約80%の人が考えている。BBC World Serviceがこのような調査結果を発表した。この調査は世界26カ国で2万7000人の成人を対象に実施された。調査によると、インターネットを利用している回答者の87%は、ネットアクセスは「すべての人の基本的な権利」だと考えている。インターネットを利用していない回答者では、このように考えている人は71%だった。特に韓国、メキシコ、中国ではこの割合が高く、それぞれ96%、94%、87%だった。 またネットユーザーの多くは、インターネットがもたらした影響をポジティブに受け止めている。78%はネットがさらなる自由をもたらしたと考え、90%はネットをいい学習の場ととらえている。余暇にSNSを楽しんでいるという人は51%に上った。ネットユーザーのうち、ネットなしでは生きていけないという回答は44%に上った。特に日本はこの割合が高く、84%だった。メキシコ(81%)、ロシア(71%)がそれに続く。」(ITmediaニュース 2010年3月10日)

「私たちの周囲にはかつてないほど情報があふれ、そこから逃れることはできない。デスクの上にも、ポケットの中にも、カフェのテーブルにもコン ピュータがある今、情報はまるで空気に乗って私たちの周りを漂っているようだ。それなのに、自分がどんどんばかになっている気がしてならない。実際、平均すれば、われわれは上の世代より無知なのではないか。アップルストアに並ぶ長蛇の列や、歩きながら携帯電話をのぞきこむ人々。人類はゾンビになってしまった。「いや、非常に忙しいゾンビだ」という弁明が聞こえてきそうだ。メールを読み、ツイッターでつぶやきながら、他人のツイートに返信する。アプリをダウンロードし、写真をアップロードする。フェースブックを更新し、世界中が自分のことを気にしているような気になって、好きなものや嫌いなものを世界に向けて発信する。では、私たちがしていないことは?それは「考える」こと。情報を処理してはいるが、考えてはいない。2つは別物だ。要はデジタルツールを触りながら、ダラダラしているだけ。リンクをクリックしては、自己顕示欲の強い愚か者や評論家、広報やマーケティングの担当者らが垂れ流す無意味なゴミの激流をかき分けている。」(ダニエル・ライオンズ「iPad であなたはもっと馬鹿になる/デジタル機器やウェブに振り回されて人間は「忙しいソンビ」になった」)

「メディアに繋ぎとめられた者 かつて、メディアとの関係において政治的行動がおさえつけられていたのは、情報に十分にアクセスできないか、あるいは、自分の視点を伝達し、表現する手段がないというのが、主な原因のように思えた。けれども、私たちがより関心をもっているのは、今日の「メディアに繋ぎとめられた者」がこれとは正反対の問題に苦しんでいるということだ。これらの主体は、情報、コミュニケーション、表現の過剰によっておさえこまれている。多くの場合、わたしたちに必要なのは、情報やコミュニケーションではなく、思考に必要な沈黙である。それは実際に沈黙することではなく、言うに値する何かを持つことである。言い換えれば、政治的行動においてもっとも重要なのは、情報、コミュニケーション、表現の量ではなく、むしろその質なのである。」(アントニオ・ネグリ+マイケル・ハート「叛乱」2012年)

「私がコンピュータを嫌うのはなぜか分かりますか?それはコンピュータにアフリカが十分はいってないからです。だから長時間使えないのです。私がなににむかついているかというと、自分の体をごくわずかしか使わないことにむかついているのです。ただそこに座っていることがあまりにも退屈なのです。こんなちいさなマウスをあてがわれ、操作に使うのは片手と眼だけで、これではいったい、身体のほかの部分はなにをすればよいのでしょう。そんなコンピュータを使いたがるアフリカ人はいませんよ。まるで監禁された気分がしますね。歴史というのはいつも、むかつく人間たちによって変えられてしまうのです。いまのコンピュータを面白がって使っているのは無気力な人間だけです。本当に効果的なコンピュータを作りたければ、健康的で活動的で、人生には他にやることがたくさんあるというような女性たちだけでグループをつくり、全権をゆだねるのがよいでしょう。」(ブライアンイーノ「アンビエントからアフリカへ」1995年)

「あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。そのうちに電車の中で、その妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだらけになった時も、ウンザリして来ました。あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれにやぐらを押し続ける男たちへの感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具として、iナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。誰でも手に入るものは、たいしたものじゃないということなんです。本当に大切なものは、iナントカじゃ手に入らないんです。一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。 あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。」(宮崎駿)

「人間とチンパンジーの脳は大差ありません。石器時代の人間と同じです。知識という21世紀のソフトウェアを5万年前のハードウェアで動かしているのです。」(ジェーン・グドール)

「ロビン・イアン・マクドナルド・ダンバー(Robin Ian MacDonald Dunbar 1947年6月28日)はイギリスの人類学者、進化生物学者。専門は霊長類の行動。彼は「ダンバー数」の定式化でよく知られている。人間にとって、平均約150人(100-230人)が「それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限」であると述べている。」(ウィキペディア)

「ここでもう一度、「ダンバー定数」について考えてみよう。それは個人が維持できる人間関係の限界数で、お互いに知り合いで、ほかの人の人間関係も把握できるような人の数だ。数十年にわたる文化人類学の研究で、この1000年間の文明を調べると、その数は常に150人と一定だった。だが、それは MySpace などのコミュニティ・サイトやソーシャル・ネットワーク・サービスが登場する前までの話だ。今ではインターネットがその何倍もの結びつきを維持する手伝いをしてくれる。では、シリコンチップは私たちがやりとりする評判の数を増やしたのだろうか?それとも「友人」の意味を希薄にしただけなのだろうか。どれもいい疑問だが、答えられるのは次の世代になるかもしれない。」(クリス・アンダーソン「フリー」2009年)
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by illcommonz | 2014-02-09 16:00
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