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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼宙吊り体験の贈与(ギフト)
d0017381_12391689.jpg舞踏家の土方巽はかつて「暗黒舞踏」を評して、
「舞踏は命がけで突っ立ってる死体である」と
そう云いましたが、昨日、東京経済大学の
粉川氏の「身体表現ワークショップ」で見た、
首くくり栲象(たくぞう)氏(*元・古澤栲)の
「首吊り」は、明らかにそれとは異質なもので、
舞踏のようでもあれば、演劇のようでもあり、
しかしそのどちらでもないそれを、はたして、
どう考え、どんな言葉にすればよいのか?

それは「命がけで宙吊りになってる亡霊」だろうか?それとも「死に方を忘れて宙に
浮いてる何か」だろうか?とか、そんなことを考えあぐねながら、約一時間あまりの
実演を「見る」、というよりは「目撃」し、それに「立ちあう」というグランギニョルな
体験をしてきました。 [#上の写真を拡大してよくみる]

舞台ではまず首くくり氏が、首くくりの赤い紐の下をゆっくりと、まるで亡霊のように徘徊し、
突然、地面の上に倒れたかと思うと、すぐに立ちあがり、それから、きわめてあっさりと、
首くくりがはじまりました。その長く静かな首吊り (約10分間くらいか?)が続いている
あいだは、まるで、時間が停止してしまったかのように感じました。

そして、再び時間が動きはじめたのは、それまで宙吊りになっていた脚が、すぅぅぅっと
うしろにむかって反りかえり、踏み台に使ったテーブルの上に静かに着地してからで、
それまで見えなかった苦悶の表情が顔にうっすらとあらわれ、いま・そこにある衰弱
したナマの身体のふるえや痙攣が、首にかけた紐を通じて天井の梁を、カタカタカタ....
カタカタカタ...と震わせはじめたところからです。それはまるで、死を前にした人間の
ふるえのようであり、つまり、ある見方をすれば、これは、時間の流れを「逆転」させた、
ある個人の再生の劇(亡霊→首吊り→再生)として見ることもできなくはないのですが、
しかし真の見どころは、そうした死の淵からの「再生」の物語や、死の逆転劇による
「生」の肯定ではなく、首吊りの「あいだ」なるものによって、「宙吊り」にされてしまった
世界とその宙吊りの「体験」そのものの共有ではないかと思いました。

というのも、その首吊りの「あいだ」なるものには、何の悲劇のドラマもなければ、
また何の情念も感傷も、ブルースもメランコリーもなく、おそらくは、記憶すらなく、
その「あいだ」なるものは、首をくくった者の存在とそれを見る者の思考を共に
喪失(蒸発?)させ、存在や思考の流れを、一種の「停止状態=宙吊り状態」に
してしまうだからで、いわばそれは、日常世界のなかにポッカリ、と口をひらいて
世界の「裂け目」のようなものです。

首くくり氏の「首吊り」は、「絶叫」や「跳躍」のような一瞬のスペクタクル劇ではなく、
クライマックスのない一種のプラトー状態のなかにそうした「裂け目」をつくりだし、
それを一定の緊張状態のなかで、持続的に垣間見せてくれるもののように思いました。

聞けば、もともと、この首くくりは、モーリス・ブランショの読書体験をきっかけに、
はじめられたものらしく、そのブランショやデリダが、自分たちの書くテキストが
完全に「読解不能」になるかもしれないという危険を承知の上で、それでもなお、
危険な「賭け」として「文」に挑み、テキストの上で一度ならず演じてみせてくれた、
あの文学と哲学の「宙吊り」状態を、首くくり氏は、自分の肉体が「再起不能」に
なるかもしれないことを承知の上で、それを首吊りの試練に晒し、その危険な
「賭け」によって、その時・その場限りのものとして出現する世界の「宙吊り」と
その体験を、惜しげもなく、そこで贈与してみせてくれていたように思うのです。

それは、もしこういってよければ、演劇や芸術や哲学にいまの狂いはじめた世界を
変えることはたとえできないとしても、それを「宙吊り」にすることならできるのだ、
ということを、自らのナマ身の身体を賭けた、具体的な行動でもって示してくれた
ように思うのです。

それはまた、かつて赤瀬川原平が、自分が生きている世界を構成する様々な
生活用品を次々に梱包して封じ込め、最後に世界をまるごと一個のカンズメの
中に封印する、ということをアートとしてやってみせてくれたことども思い出させる
ものです。

それにしても、まさか大学の講義で、こんな体験をすることができるなんて、
まったく思いもしませんでした。しかも、聞けば、石黒くんのパフォーマンスが
突然キャンセルになったため、その代案(代補?)として、この日の「アクション」
(*首くくり氏による定義)が決まったのは、なんと前日の夜中のことで、現場の
下見やうちあわせなどなにもせずに、いきなり本番という、ほとんどインプロ
ヴィゼーションに近いかたちで行われたものだそうです。

この日の「アクション」のバックで粉川氏が、絶妙の音量で流していた noto
(a.k.a. カーレステン・ニコライ)のグリッチ・ノイズ(おそらく「20 to 2000」)は、
首くくり氏の「アクション」に、一定の持続的テンションを与え、クライマックスのない
「宙吊り」のプラトー状態を演出するものとしては、おそらくこれ以上のものはない、
といえるくらいの抜群の効果をあげてました。粉川氏がビリー・ホリディの
「奇妙な果実」(リンチで樹に吊るされた黒人を"果実"に喩えてうたった怨歌)を
ひきあいにしながら指摘していたように、首くくり氏が行う首吊りの「アクション」は、
ルサンチマンやブルースを感じさせない非常に「コンセプチュアル」なものなので、
たとえば同じグリッチ系でも、フェネスやステファン・マシューでは叙情的すぎて、
まず合わないだろうし、パンソニックではややテンションが足りない気がするので、
noto を選んだのは、大正解だと思いました。また、首吊りを終えた首くくり氏が
舞台から姿を消した後、ほぼ完全暗転させた暗闇の奥のPAから可聴範囲スレスレの
ほとんど耳には聞こえない爆音の重低音が、その音のない音圧と振動をズズズズン
と鳴り響かせていた数分間は、「宙吊りになった時間」がまるで木霊(こだま)のように
エコーバックしてきたようで、これにはかなりゾッとしました。

この首くくり氏の「アクション」は、それを行う場所や環境によって、その見え方や
そこで起きることが、かなり違ってくるように思いましたので、また機会があれば、
ぜひ、それに立ち会ってみたいと思いました。

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[追記1] そして、当然のことながら、この「首吊り」の「アクション」は、飴屋(法水)さんの
「バ  ング  ント」での「アクション」との類似性や相違点を思わせずにはおかないもので、
「パフォーマンス」や「イベント」という薬にも毒にもならないような見世物が氾濫するなか、
薬と毒のどちらにもなり得る劇薬(ファルマコン)性をもった、ヘタをすれば「事件」や「事故」
にもなりかねない「アクション=行動」が再び息を吹き返してきているのを感じました。

[追記2] この日の「アクション」については、粉川さんも「シネマノート日記」のなかで、
「彼の公演のなかでは最高の部類に属する」と評されてますので、そちらもご覧ください。
■2005年 11月 25日「首くくり栲象のパフォーマンス」

[追記3] そのスジではよく知られているように、イルドーザーの石黒くんには、誰にもマネの
できない天賦の才能として、約束の時間に猛烈に遅れ、あらゆる〆切を無効にし、プログラム
を解体するというアクショニストとしての資質があり、サウンドデモを一緒にやっていた時から、
「もし今度また生まれ変わるなら、石黒くんになりたい」とそう思ってました。考えてみれば、
今回の「アクション」も石黒くんのアグレッシヴなドタキャンがなければ実現しなかったもので、
現実の社会生活のどまんなかに、本来の意味での「イベント」や「ハプニング」をつくりだす、
石黒くんのクリエィテイヴなドタキャンの「アクション」に感謝します。
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by illcommonz | 2005-11-26 12:51
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