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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼高嶺格「鹿児島エスペラント」伝
(承前) 高嶺格の「鹿児島エスペラント」のどこがそんなによかったのか。それをことばにするのはひどくむずかしく、だからこそ、動物園の檻の前に子どものように、柵から身をのりだして、いま目の前で起きていることのすべてを何ひとつとして見のがすまいと、夢中になって7回もそれを見てしまったわけですが、それでも依然として、まだことばが見あたらない気がします。もっともそんなふうに、ことばを失なうところから批評というものははじまり、ことばがないというそのことに抵抗して、そのなくしたことばをとりもどす作業が批評だとも思うので、こうやって何の見通しもないまま書きはじめるわけですが、そういう時の常として、作品の内容とは直接関係のないことから先に書いてゆくと、まず高嶺格とその高嶺を抜擢したキュレーター(おそらく横浜美術館の天野太郎氏)にとって横浜は因縁のある場所で、その同じ横浜で開催された今回のトリエンナーレは、その因縁を晴らすための、またとない失地回復の機会だったはずで、そのことが今回の傑作を生み出す見えない原動力として働いていたと思います。その因縁というのは、去年の夏、横浜美術館で開かれた「ノンセクト・ラディカル」展に高嶺が出品した「木村さん」という作品が美術館の自主規制で「公開中止」になってしまったという事件がそれです(これについては今回のトリエンナーレのキュレーターであり、「ノンセクト・ラディカル」展の担当学芸員であった天野太郎氏へのインタヴューをまじえた小崎哲哉氏の「横浜美術館の失態 1」「横浜美術館の失態 2」に詳しいので、そちらをご覧下さい。なおイルコモンズもこの件については『情況』に「新宿芸術残酷物語と木村さんの留保なき笑い」という文を書いてますので、ついでにそれも参考にしてください)。そういうこともあって、今回のトリエンナーレで高嶺がこれまでの作品の集大成ともいえるような入魂の作品を横浜でつくりあげ、それが今回のトリエンナーレで最も人に愛される作品としてブレイクし、それを見るための行列ができたということは快哉をもって迎えるべきことで、そうした経緯もふくめてこれは美術誌がちきんと報じるべき事件だと思います。聞けばその展示も決して順調だったわけではなく、オープニング前の内覧会には間に合わず、完成した後も機材の不調で映像の一部が上映されないということや、来場者が階段をふみはずす事故で一時公開が中断されたこともあったと聞いています。ただ逆にいえば、会期中にそうしたアクシデントをのりこえていったこの作品くらい「ワーク・イン・プログレス」という今回のトリエンナーレのコンセプトにふさわしい作品はないわけで、そういう意味でも、たとえどんなに行列が長くとも、この高嶺格の「鹿児島エスペラント」を見ずしては、今回のトリエンナーレを見たということにはならないと思いますので、くりかえしますが、まだ見てない方は急いで見に行かれることをお勧めします。僕らは平日の昼間を選んで見に行ったので、残念ながらその行列を見ることができませんでしたが、もしもう一度行く機会があれば、その行列を見てみたいくらいです。今回の「鹿児島エスペラント」には、その公開されそこなった「木村さん」が目に見えるかたちでは登場しませんが、暗闇のなかを手でまさぐるように光がうごきまわり、ついに見つけ出したそれを光が照らしだすというところや、目隠しの幕がさがっていたところに風が吹いてきて、その幕の裏にあった写真を見せるというところには、社会の目から閉ざされていた何かを見つけだし、それを社会に対して解き放つという「木村さん」の作品のつくりとその作品が現実の社会のなかで被った事件が投影されているように見えました。また、たとえそのことを知らなくても、暗闇のなかで人がものごとを見失ったとき、そこにさしこんできて暗闇を照らし出してくれる光は普遍的に人を安心させ、希望と見通しを与えてくれるもので、「鹿児島エスペラント」が人を感動させるのは、この人類に共通の、というよりは、まさにエスペラント的なるものとしての、光の導きによる暗闇からの跳躍とそこでの希望のとりもどしという体験の場になっているからだと思います。その光はときに洞窟の中にさしこんでくる陽光や懐中電灯のそれを思わせるもので、ここには高嶺が京都のマンガン鉱跡できわめて限定されたかたちで公開した洞窟の中の闇をへめぐる作品「在日の恋人」の残響を聞き取ることができます。また、たとえそのことを知らなくても、ひとが暗闇の中で道に迷ったり落としものやなくしものをしたとき、それを見つけ出す光は、それがどんなに小さなものであっても、かけがえなく、ありがたいものです。「鹿児島エスペラント」では、サーチライトのような光がひび割れた地面を照らし出しますが、これは第一回目の横浜トリエンナーレで、オノ・ヨーコが巨大なサーチライトを使って天を照らし出したのと明らかな対照をなしていて、あの作品に多くの人が感動するのと似たところがあります。また、たとえそのことを知らなくても、そのサーチライトが、人間を人間たらしめている文字や農耕の痕跡をたどるとき、それはまるで人間という失われた存在の痕跡をもう一度たどりなおして、それを発掘し、発見しなおす現場作業に立ち会っているような感覚を与えてくれるものです。そしてその小さな光が消えた後、突然、パッとあたり一面を明るく照らす光が現われ、そこに幻想的なビジョンが現われるのは、マッチ売りの少女のそれを思わせるものすが、それはかつて高嶺が所属していたダムタイプのステージのそれを思わせるものです。たとえそのダムタイプは知らなくても、マッチ売りの少女の話は、エスペラント的によく知られている物語で、もしこういってよければ、誰もが知ってるコモンズとしての物語です。今回の「鹿児島エスペラント」はそんなふうに、高嶺の故郷の鹿児島の方言や過去の作品などのきわめてローカルなものと、エスペラント語やマッチ売りの少女のようなワールドワイドでコモンズなもの、そして文字や農耕、そして暗闇と光のドラマのように人間にとって普遍的でプライマルなものが、まるでグローバルなものに対抗するかのように総動員され、そうしたものをミックスして新たな人間を組み立てなおし培養する公開の実験室のようなものに見えました。人魂のような鬼火のような光も見えましたが、それは宗教的なものではなく、その実験をバックアップしているのは科学と音楽ではないかと思いました。このCGとハイテク映像の全盛時代に、最初期の旧式のコンピュータで描画したような線だけによるラインアートの図が登場しますが、あれは1980年代のはじめに全世界で放映され、何億人もの人が見たという科学ドキュメント番組『コスモス』の有名なラインアートを思わせるもので、「生命のフーガ」と呼ばれていたそれは、単細胞生物から動物を経て人間に至るまでの生命ののメタモフォースをフーガのようにリズミカルに描いたもので、今日でもコンピュータ・グラフィックの傑作とされているものです。世代的に考えて高嶺はおそらくそれを見ているはずで、アラビア文字やビルマ文字のメタモルフォースの映像にもそれが転用され、文字/文化ののフーガとして変奏されています。さらにこの作品をすこぶる魅力的なものにしているのは音楽で、あいにく曲名は分からないのですが(いくつかのブログによれば磯部俶作詞/作曲の「遥かな友に」)、曲の感じは80年代に黒人のオペラ歌手キャサリン・バトルが歌ってよく知られるようになったヘンデルのアリア曲「オンブラ・マイフ=安らぎの木陰」のような曲で、高嶺の作品に「癒された」という感想が多いのは、おそらくこの曲がララバイ(子守歌)のように聞こえるからではないかと思いました。よくできたメルヘンやフーガ、アリアやララバイは時代や文化を越えてひとの心をとらえてしまうところがあり、「鹿児島エスペラント」は、そうしたものが渾然一体となった、古くて新しいマジック・ランタン(幻灯芝居)もしくは再び見出されたファンタスマゴリア(光の幻想劇)のような作品だと思いました。興味深いのは、この作品でも「暗闇」いうのがライトモチーフとしてあって、ゴダールの『時間の暗闇の中で』や村上春樹の『アフターダーク』、飴屋法水の『バ  ング  ント』展などと同じく、それが人をひきつけてやまないのは、いまのこの時代が暗黒時代であるということが集合的な無意識として共有されていて、それらの作品がその暗闇に一種の光明を与える無償の贈与(ギフト)のようなものであるからではないかとそう思いました。ということで、この「鹿児島エスペラント」はいずれ今のこの時代を語るときに必ず言及されるであろう重要な作品であることはまちがいないので、もう一度いいますが、つべこべ云わずに見に行っておいた方がよいと思います。会期があと10日しか残ってないので、なるべく早くお知らせした方がよいと思い、一気呵成に書いたため、文章に行き届かない部分もありますが、ともかくこれを読んで、ひとりでも多くの人が、この思いがけない贈りもののうな作品を体験することを願っています。トリエンナーレ全体の評価などというこましゃくれた話は後回しにして、まずは原点にもどって、作品を見ましょう。

[追記] で、しつこいようですが、今からでも招待券をいただけたら、会期終了前に、あともういっぺん見にいきたいと思います。週末の「SUPER(M)ART」にぜひ参加してみたいので。
[PR]
by illcommonz | 2005-12-09 02:47
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