はじめに、ふた、ありき
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[講座名] PARC講座「プロパガンダ解体新書」 [講義名]「ユーモアはプロパガンダへのカウンターとなり得るか?」 [講師] 小田マサノリ(イルコモンズ) [肩書き] 現代美術家、文化人類学者、デザイナー、大学非常勤講師 [日時] 2016年9月13日(火)19:00-21:00 [場所] アジア太平洋資料センター(PARC) ※定員30名 受講料:21,000円(全6回分) ※他の講師たちの講義内容はこちらを。 [受講生へのメッセージ] 「この講座では、過去から現在までの映画を中心に、それぞれの時代の大きな力に「ユーモア」で立ちむかった作家たちの作品を通して、ユーモアとそこに宿るヒューマニティについてお話します。」という予定でしたが、今回がこの講座の最終回なので、プロパガンダについてのまとめと、プロパガンダがもたらすディストピア感に対する処方箋という観点から、ユーモアの持つ潜在能力についてお話します。 [教材] ▼プロパガンダのプロパガンダ ▼誰でもすぐできるプロパガンダのすすめ(笑) ▼メディアコントロール ▼ヒトがプロパガンダにひっかかるいくつかの理由 ▼ユーモアとはなにか 「ユーモアの分析はカエルの解剖のようなものだ。興味を持つ人はほとんどいない、しかも、カエルはそのために死ぬ。」(マーク・トウェイン) 【精神的姿勢と解放感】 「ヒューモアとは、フロイトが言うように「精神的姿勢」であって、むしろ笑いとは関係がない。フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)が「そんなことは何でもないよ」と激励するものである。それは自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛あるいは苦痛の中にある自己を蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すアイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、アイロニーが他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。ここでフロイトがいった言葉を引用しておかねばならない。「ついでながらいうと、人間誰しもがヒューモア的な精神態度をとりうるわけではない。それはまれにしか見いだされない貴重な天分であって、多くの人びとは、よそから与えられたヒューモア的快感を味わう能力をすら欠いているのである」。フロイトも、ヒューモアに、ある高貴な「精神的姿勢」を見いだしている。人類の未来には解決はありえない。フロイトの結論は絶望的なものである。だが、それを読む者に(少なくとも私には)解放感を与えるのはなぜなのか。」(柄谷行人「ヒューモアとしての唯物論」より抜粋) 「ユーモアは、比喩だったはずのメッセージが急に文字どおりの意味になったり、逆に、文字どおりの意味だったはずのものが急に比喩になったりするときに、ひとつの発見として生じる。コミュニケーションの区別がおかしくなり、それが再び統合されるときに、ユーモアがうまれるのである」(グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」) 【人間的な連帯と共感】 「現実の生活のなかで、悲劇的状況におかれている自分を喜劇の主人公としてみることができるかどうかは、その人がユーモアの感覚を持っているかどうによって決まります。ユーモリストと呼ばれる人びとは、しばしば自分の失敗談を他人に披露し、聞き手と一緒になって笑います。それは失敗する自分を第三者の目で客観的に眺めるもう一個の目を持っているからです。自分自身を第三者の目で見る能力、それがユーモアの感覚を構成する大きな能力の一つです。ユーモアの感覚は「人間は完全であり、完全でなければならない、失敗をせず、つねにきまじめで真剣でなければならない」という考え方を否定します。もちろん人間のあらゆる不徳や不完全さを全部認めるのではなく、人間を本来、強いものではなく弱いものと考えることによって、その持って生まれた弱さのために、起こるのもやむをえないと認められる程度の失敗や不完全さという限度で、容認してしまうのです。「自分もそういう失敗をするかもしれない、たしかにそういう弱点を持っている」と認めることによって人間的な連帯と共感が生まれます。そして他人の弱さのなかに自分が持っている弱さを投影し、他人の弱点をあたたかい笑いでつつみ、いたわることによって、まっさきに自分が救われるのです。」(織田正吉「人を救う笑い―ユーモア」より抜粋) 【共犯の快楽】 「例として挙げられるのが、絞首台にひかれて行く罪人のエピソードである。それが月曜のことで、この罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と言ったとすれば、それはユーモア的な精神態度である。このユーモアがこの罪人本人において完結し、かれに満足を与えることは明白だが、同時にそれを耳にする私たちの側でも、この罪人と同様のユーモアの快感を感じる。すなわち、ユーモアの笑いがこぼれるや否や、それを発した本人においても、それを取り巻く私たちにおいても、ユーモアの快感が分かち持たれることになる。いわばそこには共犯の快感があり、こうした快感を介して笑いは伝染する。」(蕩尽伝説「フロイト「ユーモア」を読む」より抜粋) 【感情の節約】 「誰であれ、絞首台に引かれて行くと聞かされれば、私たちとしては無意識のうちにその心中を想像し、その人物に感情移入して、さぞや辛かろう、苦しかろうと自らの感情を高揚させ、それを一息に消尽すべく待ちかまえのであるが、あにはからんや、肝心の罪人本人が冗談をかますので、聴き手の側は予期していた感情の消費ができなくなってしまう。すなわち感情の消費が節約された。こうした「節約」がユーモアにより得られる快感の原因だ、とフロイトは述べる。フロイトによれば、消費されるべく貯め込まれた精神のエネルギーがいわば「空振り」させられる、それがユーモアの快感の源泉になる。心身に高まった緊張が一息に弛緩させられるとき、それは快感になる。文字通り「落ち」がついたというわけだ。このことをフロイトは「感情の消費の節約」と形容するのである。」(蕩尽伝説「フロイト「ユーモア」を読む」より抜粋) 【自我の不可侵性の貫徹】 ユーモア的精神態度を発揮する人物に触れるとき、私たちもユーモアの快感を享受する。それはユーモリストの精神において起こる現象の反響であり、コピーにほかならない。精神のいかなる働きがユーモアを可能にさせるのだろうか。それはユーモアの持つ「自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹」という本質に由来する。ユーモアにおいて自我は、現実により自らが傷つけられること、苦悩を押しつけられることを拒み、外界からの傷(トラウマ)を絶対に近づけないようにする。それどころか、そうした傷もまた自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示する。ユーモアとは諦めではなく反抗である。現実の側からの要求を拒否し、自我の勝利が高々と宣告されるとき、それは同時に快感原則の勝利をも意味している。快感原則はユーモアを用い、自分にとって不利な現実の状況に対抗して自己を貫徹する能力を持っているのだ。(蕩尽伝説「フロイト「ユーモア」を読む」より抜粋) 【ユーモアが最も力を発揮するとき】 「ユーモア感覚は、あらゆる種類の心の束縛から解放されるためのひとつの能力です。それは固定観念や先入観をとりのぞき、アイディアをひらめかせ、表面の現象にとらわれないで、かくされた真相や実体を見ぬくことのできる知性の一種です。そして、ユーモア感覚がもっとも力を発揮するのは、困難、逆境、対立、被害など、マイナスの事態がみのまわりに起こったときです。ユーモアの感覚は決して、道徳的、倫理的感性ではない、もっと実用的なものであり、足が速いとか暗算が得意というのとほぼ同じレヴェルの能力です。人は生きるための知恵としてユーモア感覚を磨き、あるときはそれを武器として闘い、あるときはそれを精神をささえる糧とします」(織田正吉「人を救う笑い―ユーモア」より抜粋) ▼オール・ユー・ニード・イズ・ユーモア・ナウ。
by illcommonz
| 2016-09-18 20:29
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