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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼岡本太郎のディズニー芸術論
▼岡本太郎のディズニー芸術論_d0017381_155464.jpg金曜のイルコモンズアカデミーでは、はじめに
「コヤニスカッテイ」を観ます。13:00から
上映開始しますので、この映画をすでに
ご覧になった方は、14:30頃から途中参加
されても構いません。なお、当日は時間の
都合で上映できませんが、2004年に公開
されたディズニー・ピクチャーズ制作の下記の
ドキュメント映画と「コヤニスカッテイ」を比較
して見てみると、「あれれれれ、これは...」と
いう感じがで、面白いかもしれません。
ジョン・ロング監督 2004年
「セイクレッド・プラネット/生きている地球」
The Sacred Planet 47分 カラー

あと、ディズニー制作のドキュメントというと、ジェームズ・アルガーが監督した
「砂漠は生きている」(1953年)という作品があります。これはディズニー社の
「記録映画」第一作で、イルコモンズが子どものころは、同じくアルガーが監督
した「狼王ロボ」などと一緒に町の公民館や小学校でよく上映されていた作品です。
どちらもよくできた作品で、特に前者は、映像的にも、また、一部フェイクだった
という点でも、のちのヤコペッティの「世界残酷物語」の有名な海ガメのシーンと
オーバーラップするところがあります。なお、この映画については、1963年に
岡本太郎が卓抜なレビューを書いていて、それは後に、スティ-ヴン・ジェ-・
グ-ルドが『パンダの親指』(1991年)で展開してみせたミッキーマウスの進化
論につながるところや、またディズニーの芸術論としても読める、非情に興味深い
テキストなので、やや長文になりますが、抜粋して紹介したいと思います。

▼岡本太郎のディズニー芸術論_d0017381_348501.jpg
「砂漠は生きている」はディズニーのドキュメンタリー映画の見はじめだった。
展開してゆく驚異的な自然の美しさに、続けざまにぶんなぐられるような動揺
を感じ、やがて私はまったくその天地に溶け込んでしまった。(...) いったい、
こんな素晴らしい自然のドキュメントについて、何を批判することがあろうか。
腹立たしかった。人間のつくったものはすべて批判できる。しかし、これはおよ
そ人間と隔絶しているのだ。(...)圧倒的なものものしさ。逞しく、美しく、充実
してそこにある。その生命本来の激しさ、小ざかしい分別以前の存在感。いわば
非人間的な要素に私の感動はすべてかけられている。人はそこに始原的な
自由と恐怖を見取る。神聖であり、厳粛な気配である。ディズニーのプロダクシ
ョンが写してくれたのだということは、感謝こそすれ、感動の下に地底の虫の
ように、一種の歯切れの悪さがひそんでいる。それがディズニーなのだ。だから
批判する点があるとすれば、それはこの自然が自然自体として厳密にとりあげ
られていないという点である。つまりディズニーの小手先芸だが、それがドキュ
メント映画を随所で裏切っていることはたしかである。しかし、そんなことは圧倒
的な素材の前に、まことに些細なきずだ。当然、見過ごすこともできるが、しかし、
ディズニー論を展開する上には、重要なポイントである。また、自然=動物と人間
という対立関係は、芸術の根本的な問題の一つなので、ディズニーを口実に少し
突っ込んで取り上げてみよう。ディズニーの漫画映画は、動物と人間を具体的に
使いわけて、新しい芸術のジャンルを作り上げた。その魅力のポイントは、何と
いっても、カリアチュアライズされた動物のアニメーションにあることは、今さら
云うまでもない。私は彼のミッキーマウスその他がスクリーンに登場しはじめた
頃の驚異をまざまざと憶えている。(...)やがてドナルドダックやプルートなどの
名優がぞくぞくと出現して、ますます人気をあつめた。そして資本力と技術の発達
によって、「白雪姫」その他の長編を制作して今日に至ったことはご存知の通りで
ある。なるほど画面の動きや道具立ての迫真性は驚くほど精巧になり、技術的には
すでに達するところに達した感がある。だが、どうも近年のディズニー漫画は、
それほど面白くない。むしろ退屈である。これは私ばかりの感想だろうか。その
理由を、ここでは自然=動物と人間の対立に焦点をしぼって考えてみたい。(...)
ディズニー漫画の動物たちは、みな擬人化されている。動物が人間のように動き、
ドラマを構成するのだ。その面白さは、主人公たちがその動物自体の、固有の
動物臭をくっきりと身につけながら、その動きによって現われてくるのは人間であり、
しかも人間以上に人間だという点にある。ところが、この動物たちが近頃のように、
あまりにも巧みに人間の動作を真似しはじめると、ふしぎにかえって実感がうすれ
てくるのだ。はじめの頃の、動物が人間のように動くという驚異、動物であって人間
であるという感動、つまり「動物」の感動が失われ、画面の主人公たちは、言い訳に
すぎない長耳や、しっぽ、クチバシで扮装してはいるが、すっかり平凡な何でもない
人間に昇格、いや堕落させられてしまったのだ。(...) 誤解のないように申し上げて
おきたい。人間的に堕落したと私がいったのは、何も動物が人間的動作をするから
ではない。それを透かして投射されている人間の動き方がメカニックなアカデミズム
なのだ。問題はディズニーが描いている人間像そのものであり、それが概念的で、
軽薄だということにほかならない。退屈さをはそこから出ている。(...) 妙な言い方に
聞こえるが、動物は、動物であって動物、自然は自然であって自然だが、人間は
自然、動物であって、同時にアンチ自然、アンチ動物なのである。動物に対して、
断絶とシンパシーが同時にはたらいているのはそのためだ。動物を表現するなら、
この矛盾を徹底的に矛盾として掴み、その対決を描き出すべきなのだ。でなければ
中途半端で、芸術的な感動にはならない。まず、動物を動物的にみなければならない。
ミッキーやプルートが機械人間ではなく、本当に犬であり、鼠であるならば、そこには
神秘的で、非人間的な凄みがあるはずだ。ふとした拍子で鼠と出くわし、凝視しあう
ときなど、暗い生命の焔が戦慄的によみがえってくるのを私は感じる。そのような
動物的共感は、ドメスチックで人間的な動物よりも、非情な野生の動物において、
さらに激しく深刻だ。「自然の驚異シリーズ」のドキュメント映画の持つ迫力と感動は
そこにある。そして「砂漠は生きている」にこそ、それが最も強烈に生かされていなけ
ればならないはずだ。だが、前にもいったように、もしこの作品に多少後味のわるさが
残るとすれば、それは自然を擬人化する手続きの容易さ素朴さにある。(...)ミッキー
マウスやドナルドの陥った混乱の轍に、この非情な砂漠の動物たちをも踏み込ませる
のは、ディズニーの高度な技術のディレンマである。動物の非人間性を異質のまま
つきつけ、逆に人間的共感をよびおこすべきだ。(...)

この「砂漠は生きている」からちょうど半世紀を隔てて、文字通り、最新のハイエンド・
テクノロジー(劇場公開時はアイマックス・シアターで上映された)駆使してつくられた
「セイクレッド・プラネット/生きている地球」では、はたして、このディズニーの人間観
やテクノロジーのディレンマがどのように変化しているか、そこが批評の焦点として、
ぜひ見てみて下さい。ついでに、ドナルドならぬ、マクドナルドが陥っているファースト
フードのディレンマについて考えてみるのもよいかもしれません。さらには、本来の
野生性を虚勢され、家畜化された動物キャラのアニメや映画がひとに(特にこども)
に及ぼす自然観の変容などについて考えてみてもよいかもしれません。なお、この
春からの「文化人類学解放講座」では、「野生のコモンセンス」がどのようにして見失
われていったかを、ディズニー映画やファーストフードを手がかりにして考えてゆく
予定です。
by illcommonz | 2006-01-11 03:49
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