はじめに、ふた、ありき
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(先週の)日曜日は、一橋大学でひらかれた「人類学バトル・ラウンド3」に出席。今回は「ポストコロニアル論争は人類学の自殺行為に等しかった」が争点。この争点をめぐって賛成派と反対派に分かれた四者間での討議が行われた。討議終了後、場外からの発言・意見・感想を経て、参加者全員による「反対・賛成」の投票が行われ、多数決によって勝敗が決した。結果から云えば、「反対」が「賛成」をほぼダブルスコアで制した。つまり「ポストコロニアル論争は人類学の自殺行為に等しくはなかった」ということだが、このバトルの興行主みずからが評決の後に述べていたように、「歴史的にみれば多数派による決定が常にただしかったわけではない」(たとえば「アラバマ物語」をみよ)。もともと多数決が大嫌いなイルコモンズは、結局、今回も投票を棄権したのだが、興行主のこの意見には同意する。また今回、「反対」が多数を占めたので、少数派につきたがるイルコモンズとしては、今後は積極的に「賛成」にまわろうと思った。どうにもヘソ曲がりでこまった習性だと思うが、それが「イル」ということである。イルということで云えば、この日のバトルで「ヒール(=悪役)」を演じたのは、最後に登板した慶田氏だったと思う。「ポストコロニアル批判は人類学者自身の「植民地的想像力」によって物象化されたものにすぎない」という主張には、さすがにイスから転げ落ちそうになった。というか、「この人ときたら、まったく、もう、こまったもんだ」と思った(もちろん、この主張に場外から異議がとなえられたことは云うまでもない)。バラしてしまうが、慶田氏はイルコモンズの大学院時代からの知り合いで、ケニアで同じ時期にフィールドワークをやった悪友であり、ふたりとも九州生まれの福岡人である。慶田氏の大仰な話を聞きながら、「あああ、まったく、福岡の人間はこれだからこまる。なんでこんなにワイルドでラディカルでストレートなのだろう。どうして他の人たちみたいに、もっとスマートでエレガントでスタイリッシュにやれないのだろう」と呆れたが、土地の血というのはおそろしいものである。かつて鮎川誠が述べていたように「博多のもんな、横道もん、青竹割って、へこにかく」である。その血はイルコモンズのなかにも絶ちがたく流れていて、討論の後の場外発言でイルコモンズも、やらかした。「人類学者になりそこねた人間の立場から云わせてもらうと、ポストコロニアル論争が自殺行為だったか、そうでなかったかなんて、そんなことはどうでもいい。「ポストコロニアル論争以前の人類学がもともとどんな学問だったか」という問いに答えて云うなら、それは「解放の学問」だった。それまで自分が持ってた常識や価値観をぶちこわし、それから解放してくれる学問だった。それが今では「反省」ばかりしていて、いいかげんうんざりしてる。この10年のことを云えば、「こんなはずじゃなかった」というのが正直な感想で、「人類学者になりそこねてよかった」とすら思ってる。」というようなことを口走る始末。「あああ、まったく、福岡の人間はこれだからこまる」のは自分も同じだという罠。しかもこの発言は後日ネットに掲載されるらしい、あははのはである。まぁ、云ってしまったものは仕方がない。仕方ないついでに、反省もせず、さらに云えば、「ポストコロニアル論争は人類学の自殺行為に等しくはなかった」としても、いまそこにある「グローバリズムは人類の自殺行為に等しい」と思うので、自殺をまぬがれた福岡生まれの人類学者のなりこそねとしては、そこを自分のフィールドとし、文化人類学の現場主義でもってアクティヴにとりくんでゆきたいと思いながら家に帰った。その帰り道、ふと頭をよぎったのは、こんなフレーズだった。いまはもうやってないと思うが、むかし福岡ではこういうローカルCMがあった。
「博多には、安泰を祈る縁起かつぎやしきたりが今も息づいている。その中で育った博多っ子は、あけっぴろげで、人が好く、少しばかり大仰で、祭り好き。 粒あんをフレッシュバターでくるんだ粋な味、伝統に生きる銘菓、博多山笠、山笠があるけん博多たい!」 人類学者なら「他者からのオリエンタリズム的イメージの内面化」というかもしれないが、福岡の原住民としては、これはかなりあたってるのではないかと思う。もちろん、こういう「県民性」などというものは「文化とパーソナリティ論」と共に半世紀以上もも前に死滅したものだが、東京で暮らしていると、どうもそういうものがあるように思えてしまう。慶田氏なら「物象化」というだろう。たしかにそうだろうと思う。しかし、ここでもまた、反省せずに云えば、これはパタンではなく、ロマンである。つまり、こういうふうに生きたい、こういうふうにありたいというロマンであり、「失われたもの」というフィクションのもとに、つねにとりもどしたいと思うロマンであり、ポエジーである。ヴォネガットがそう証言していたように、かつての文化人類学は「科学のふりをした詩のような学問」であった。これもまたロマンかもしれないが、福岡人として云わせてもらえば、それでも「よかよか」である。そういう人類学があってもいいはずだ。博多もんのように、あけっぴろげで、人が好く、少しばかり大仰で、祭り好きな人類学があってもいいはずだ。寺山修司の詩にこういうのがある。 「私が書く詩の中には、いつも汽車が走っている。だが私はその汽車に乗ったことがない」 これをもじって云えば、 「イルコモンズの人類学の中には、 いつも山笠が走っている。 だが、その山笠をかついだことはない。 でも、かついでみたいといつも思っている」。 と、これまた大仰な話ではあるが、 あははのは、まぁ、よかよか。である。 [追記1] 福岡のこの「よかよか。」ということばが持つ、ほとんど無条件的な肯定性と赦し、そしてそれが与える解放性は他の地方のことばには翻訳不能であるらしい(いちばん近いのは、ボブ・マーリーのうたにある「Everything gonna be alright」かもしれない)。もっとも、「よかよか」とはいっても、PC(ポリティカルコレクト)的に云えば、「政治的にただしくないこと」ですら「よかよか。」と云ってしまうのは、かなり問題だと思うが、しかし、この「よかよか。」にこれまでどれだけ救われてきたことか、と思うと、あたまごなしに否定もできず、ついついまた「よかよか」と云ってしまいたくなるという罠。イルコモンズがよく書く、「あははのは」とは、実は「よかよか」の枕詞であり、そこには「よかよか。」とまでは云わないが、「よかよか。」と云う心の準備がある、というニュアンスがこめられていることは、あまり知られていない、というか、自分でも、いま気がついた。 [追記2] もうひとつ云うと、福岡には「だいたいくさ、」ということばがある。この言葉が人の口から出たときは「やばい、これは、ただではすまないぞ」と覚悟をきめたほうがよい。これは、ものごとをその根本や原則、あるいはその発端やはじまりまでさかのぼって、そこからラディカルに反撃をしかけてゆくときの合図である。なにしろ、それまで「よかよか」だったものが、そこで一気に反転するのだから、これはおそろしい。しかも、この「だいたいくさ、」がはじまると、もうとまらない。それまで「よかよか。」といいながら、ぐっとためこんでいたエネルギーがそこで一気に爆発するのだから、たいへんである。山笠のように突っ走る。だから、この言葉をきくと、たいていの福岡人はびびる。イルコモンズもびびる(しかしそれは福岡人の得意技でもある)。この「よかよか。」と「だいたいくさ、」の弁証法的なダイナミクスについては、ぜひ身のまわりにいる福岡人(あるいは福岡族)にきいていただきたい。
by illcommonz
| 2007-10-14 21:52
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