|
イル・コモンズ 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき
以前の記事
2009年 11月2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 検索
ネームカード
|
Ezequiel AdamovskyAnti-capitalism for beginners: the new generation on emancipatory movements. 「新しい反資本主義と伝統的な左翼の最も大きな 違いの一つは、定義するのが非常に難しく、それは まだどの本にも書かれてないし、また、どんな理論 にもあてはまらないが、強いていうなら、その違いは 「闘いの文化」の違いである。」(エセキエル・アダモフスキー) アダモフスキーは、その違いを下のような図にまとめている。 【伝統的左翼】 【新しい反資本主義】 [闘いの文化] [創造の文化] 大儀のための 充実して幸福な人生を 「犠牲」を評価する 築くことを大切にする 個人の利益は 個人的な利益は 集団的な利益に 集団的な利益に含まれ 吸収される 受け入れられる 疑いやためらいは 知らないことを生活の 罰せられる 基本として認める 私生活は 私生活は ほったらかし 重要である 弱さ、間違いに 人間誰しも 対する不寛容 あやまちを犯す 結果を考えない 細心さをともなった 勇気を評価する 大胆さを評価 死者を「英雄」や 生命をたたえ、 「犠牲者」として 日々の暮らしに 祀りあげる 根ざした闘いを実践する 人びとを礼賛する 一般人の世界 社会にとけこむ から切り離された 闘士たち 闘士たち 厳格な規律 状況に応じて合意する 「怒れる」闘士たち 「陽気な」闘士たち 「私生活をほったらかしにしてる」というその一点をのぞけば(ただし現在改善中)、イルコモンズはおおむね「新しい反資本主義」のアクティヴィストである。もちろん、あらゆる二分法がそうであるように、この分け方にはやや強引すぎるところもあり、また、排他的な側面があることも否めないが、しかし「新しい世代のアクティヴィストたち」と同様、実年齢や世代をこえて共有できる、これまでとはちがう「新しい闘いの文化」が、いま、ふたたび生まれつつあることだけは確かなようだ。そのことはもっと広く知られてほしい。というのも、「左翼は××だ」とか「活動家は××だ」とか、「ねぇ、それって、いつの時代の話?」と思わずそう云いたくなるような、大昔のステレオタイプであれこれものを云われても正直こまってしまうからだ(そして、マスコミの報道がしばしばそのステレオタイプを再生産していることも無視できない)。 さらにアダモフスキーは、この図式をもとに、こんなふうに書いている。サミット前に、雑誌「VOL」に書いた原稿「新しい反資本主義の表現者たち」では、枚数の都合で十分に紹介できなかったので、かわりにここで紹介したい。 「新しい反資本主義のこれまでの運動との違いは、まるでお祭りやカーニヴァルのようなアピールの形式、警察の弾圧をかわすための「とぼけた戦略」(道化師の格好をするとか花を配るとか)の採用をみれば明らかだ。「新しい闘いの文化」は、アートと政治の密接な関わりにおいて見てとることができる。「伝統的な闘いの文化」の闘士たちの活動においては、芸術が採用される場面はごく限られていた。よくてせいぜい「アクセサリー」あつかいだった。しかし、新しい世界をいま・ここでつくることがアクティヴィストたちの主要な課題となってからは、新しい反資本主義とアーティストの仕事はかつてないほど近づいてきている。いまやアーティストとアクティヴィストは互いに創造性を分かち合っているのだ。」(エセキエル・アダモフスキー) 「新しい反資本主義」の「新しい闘いの文化」はラディカルな民主主義とコモンの文化でもある。そこでは独創的なアーティストとひとにぎりのアクティヴィストだけが協働するのではなく、その現場ではみなひとりひとりが、誰でも簡単にまねができて自由に共有できる、コピーライトのないコモンの衣装を身につけ、とぼけたユーモアのセンスをのびのびと発揮し、陽気で、快活で、活発で、そして社会から(特に子どもたちから)も愛される、新しいアクティヴィスト・アーティストに「共に」「なること」が求められる。たとえば、こんなふうに。 ▼クラウンアーミーとおまわりさん (CLOWN ARMY AND COP remix) http://jp.youtube.com/watch?v=vszxHGFlG9w [音楽] スモール・サークル・オブ・フレンズ「ドリフター」 [編集] イルコモンズ ▼ピンクのボールとブラックブロック (PINK BALL AND BLACK BLOC) http://jp.youtube.com/watch?v=izioS9Cu94Q [音楽] ジョニ・ミッチェル「サークルゲーム」 [編集] イルコモンズ Yesterday a child came out to wonder. Caught a dragonfly inside a jar. Fearful when the sky was full of thunder. And tearful at the falling of a star. Then the child moved ten times round the seasons. Skated over ten clear frozen streams. Words like, when youre older, must appease him. And promises of someday make his dreams. And the seasons they go round and round. And the painted ponies go up and dawn. Were captive on the carousel of time. We cant return we con only look behind. From where we came. And go round and round and round. In the circle game. (Joni Mitchell "Circle Game") クラウンアーミーとブラックブロック、どちらも少しおてんばだったり、少しやんちゃすぎるところもあるけど、そもそも「活発」でないアクティヴィストって何だ? ![]() ちなみに、このヴィデオも洞爺湖サミット直前にYouTubeにアップして、そのままになっていたもの。映像はいずれも去年のハイリゲンダム・サミットの時のものを再編集した。音楽は、再結成されたスモール・サークル・オブ・フレンズと若き日のジョニ・ミッチェルを使用。どちらも70年代のテイストをもったサウンドなので、それにあわせて映像にもかすみをかけてみた。キーワードは「サークル」。ジョニ・ミッチェルのこの曲は、映画「いちご白書」(1971年)でバフィ・セント・メリーがうたってヒットした。このふたつのヴィデオは札幌・当別キャンプの「洞爺湖映画祭前夜祭」で初上映した。デヴィッド・ソルニットがみて、ものすごく喜んでいたのをよく覚えている。「洞爺湖映画祭前夜祭」のレイトショーでは「いちご白書」も上映。廃校になった中学校の体育館でみた、この映画のラストはとてもよかった。 [追記] なんだかこういうのは照れくさくて、これまであまり人前で話したことがなかったが、思いきって白状してしまうと、映画「小さな恋のメロディ」と「いちご白書」がイルコモンズのアクティヴィズムの原点なのだった。これは逮捕されたときの取り調べでも決して話さなかったトップシークレットのひとつ。 ※このブログはトラックバック承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
新しい反資本主義、創造の文化の方が断然いいなと思います。 ただ、「社会にとけこむ闘士たち」という部分が自分はあまりうまくいっていない気がします。 器用な方ではないのですが、「共」を感じられるような生き方ができるといいなと思います。 【伝統的左翼】→ハハッ、全くだ!!笑えますね、この定義は。言いえて妙だ。 【新しい反資本主義】の“「陽気な」闘士たち”がいいですね。 「陽気である」事がじつは、もっとも破壊力があるのだ、と思う。 なんだ、これってリブじゃん、わたしたち70年代からそうやっててきたんだけど……と思った次第です。 『資本論』では資本主義という言葉は数箇所しか使用していない(高橋洋児)、そうである。きちんと読んでいないので確認できないが、ほんらい経済システムの呼称として使われた言葉が、まるでそれを明快な主義・主張として認識するのはどうか? ほんらい自由主義(あるいは新自由主義、市場主義)として政治思想に対応するものとしての経済システムなわけで、資本制経済システムとして理解したほうがいいということではないか。そうしないと誤解を生む。
| |||||||||||||||