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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼イルコモンズ・アカデミー予告篇
d0017381_5501378.jpg
[特別上映] 「ミッキーマウス、ハイチへゆく/ディズニーの搾取の科学」
        NLC監修・CRA制作 17分 カラー 1996年 字幕なし
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by illcommonz | 2006-03-31 05:57
▼「いわゆるビンテージ・リスト」のいたずら
d0017381_2414028.jpg
どこの楽器店の誰がこしらえたものかは知りませんが、
今回リリースされた「いわゆるビンテージ」リストを
よんでて、ふふふ、と笑った項目がひとつあります。
TEISCO の次に、Texas Instruments 社の
「スピーク&スペル」が、ビンテージリストのなかに、
こっそりまぎれこんでいました。たぶん「経産省の
役人どもには、どうせわかりっこないだろう」と考えた
リストの編集者がイタズラで書きくわえたのでしょう。


とはいえ、1978年に発売されて、いまはもう製造していない電気製品なので、
たしかに「いわゆるビンテージもの」といえば、そうなのですが、どちらかというと、
「なんちゃってビンテージ」という感じでしょうか。もともとこのスピーク&スペルは、
子ども向けの知育玩具だったのですが、クラフトワークが電子楽器として使い、
のちにテイ・トウワなどがトラックづくりに使用したことから、おもにテクノ界隈では、
「電子楽器」として使われています。たしか、スピルバーグの映画「ET」のなかで、
エリオットがETにことばを教えるのに使ったことで有名になったと記憶してます。

ご存知ない方は、ここのサイトにヴァーチャル体験版がありますので、さわって、
音をきいてみてください。イルコモンズもいたずらでこんなものをつくってみました。
                                ↓
#"PSEに呪いの呪文を(Speak a spell on PSE)" 21秒 mp3 432KB

d0017381_2472983.jpgこのスピーク&スペルとならんで
有名なおもちゃの電子楽器が、
スタイロフォン(stylophone)です。
これもクラフトワークが1981年の
「ポケット・カルキュレーター」で演奏に
使ったことで、よく知られるようになりました
(とはいっても経産省の大臣や役人たちは
そんなこと知らないでしょうがね)。

d0017381_2544941.jpg

クラフトワーク
「コンピュータ・ワールド」
1981年
さらに遡ると、ディヴィッド・ボウイの「スペース・オデッティ」のSE音としても使われていた
由緒あるものですが、残念なことに今回の「いわゆるリスト」に入ってませんでしたので、
もしこれから先、この「いわゆるビンテージ」リストが本当に更新されてゆくのであれば、
このスタイロフォンも日本国が認定した「いわゆるビンテージもの」として正式に登録され、
それによってこのPSE法が世界中の「いわゆる笑いもの」になることを期待してやみません。

d0017381_2374310.jpg
-------------------------------------------------------
d0017381_31537.jpg[追記] スタイロフォンは、
今でもここのオフィシャルサイト
販売しているようです。
価格は55ポンド(UK)です。
もちろんイルコモンズも
愛用しています。
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by illcommonz | 2006-03-31 03:07
▼「いわゆるビンテージ・リスト」をよむ
d0017381_010558.jpg仕事が一段落したので、
「いわゆるビンテージ」リストを
もういっぺんよく読んでみましたが、
やはりイルコモンズ愛用のものは、
どれもこれもみごとにハズレてました。
特にACETONE、TEISCO、GUYATONE、
ELKなど、昭和四〇年代の国産アナログ機材
(エコーマシン、リズムボックス、エフェクター類)の
ほとんどが「公認リスト」からハズレていました。

←たとえば、ACETONEのこれなんかがそうです。

で、さらによくよんでゆくと、この「いわゆるビンテージ」のリストのなかには、
「それはまだヴィンテージとは呼ばないだろう」と思える比較的新しいものが
散見されることに気がつきました。ズバリ云ってしまうと「中古の売れ筋商品」
が多いように思うのです(たとえばZOOMやVESTAXのもの)。もともと今回の
「いわゆるリスト」は大手楽器販売店がとりまとめたものらしいので、おそらく、
今後のビジネスのことを考えて、こういう選定になったのだろうと思いますが、
それは当然の自己防衛であって、それを責めるつもりはまったくありません。
そもそも「「ビンテージのリスト」をつくるということそのこと自体にムリがあって、
しかも経・済・産・業・省などというところに、そんなものがつくれるわけないと
思うのですが、どうでしょう。強いて云えば、文化財保護に近いものなので、
管轄としてはむしろ文化庁の仕事ではないかと思うですが、どうでしょうか。
ということで、やはりこのリストは、ビリビリビリ、ポィです。
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by illcommonz | 2006-03-31 00:43
▼経済産業省がビンテージを認定するというのは、
d0017381_2313952.jpg
つまり、こういうことですね。絵にして見てみると、かなり気味が悪いですね。
せっかくのヴィンテージのオーラもだいなしです。それはさておき、リストですが、
この世に「完璧な地図というものは存在しない」のと同様、「あらゆるリストは、
つねに不完全である」ので、アレがないコレがないと、いちいち不備をあげて
いってもキリがない、ということは百も承知ですが、今回公表されたリストを
みると、やはり黙ってはいられないので、書くことにします。

まず、以前ここに書いた予想がほぼ的中でした。やはりイルコモンズ愛用の
リズムボックスTR-66は、この「いわゆるビンテージ」リストからハズレてました。

d0017381_23135374.jpg
もっとも、こんな型番だけの無味乾燥なリストでは、なにがなにやらさっぱり
分からず、おそらく何のイメージもわかないと思いますので (だから、リスト
というものが生理的に嫌いです。それは個々の存在についての想像力を
うばいとる)、そこで、ためしにこれも画像をつけてみることにします。
d0017381_23124857.jpg

















この認定リストは随時
追加されるそうですから、
ことによると、TR-66も
いずれ認定されること
になるかもしれませんが
(認定されなくて結構)、
←このへんのものは、
たぶんムリでしょうね。


でも、これらだって「生産が終了してほかに代わるものがなく、希少価値が高い
もの」で、しかも、ちゃんと「旧法(電気用品取締法)の表示があるもの」なので、
わざわざ「いわゆるビンテージ」と国に認定されるまでもなく、当然ヴィンテージ
なわけです。そこにこんな「公認リスト」がつくられてしまうと、それによって逆に、
非公認の見えない烙印をおされることになるわけで、今回の「国家公認リスト」は、
一部の「高級ビンテージ愛好家」にとっては都合がよくても、それ以外の「ジャンク
愛好家」にとってはかえって迷惑なしろもので、たぶん今回のこの「公認」によって、
中古市場での取引価格もあがるでしょうね。というわけなので、なんというか、この
リストは、その、いわゆる、ビ、ビリ ビリ ビリ、ポィ、です。
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by illcommonz | 2006-03-30 23:44
▼K3ショーのリスト
「経産省、PSEマーク無しで販売できる「ビンテージ」楽器等の一覧を発表」
経済産業省のサイトで公開しているPDFには、PSEマークを付けずに販売できる
“ビンテージもの”約1,900機種がリストアップされている。経済産業省は30日、
電気用品安全法(PSE法)の対象となっている製品のうち、いわゆる“ビンテージ
もの”と呼ばれる電気楽器等について、PSEマークを付けずに販売が可能となる
製品のリストを公表した。同省のサイトにもPDFファイルで掲載されており、
約1,900機種がリストアップされている。(Impress Watch 3月30日)

d0017381_2136267.jpg





イルコモンズの
TR-66
除外品から
除外の模様
「いわゆるビンテージものに関する特別承認制度について」
「特別承認に係る電気楽器等一覧」(PDF形式:78KB)

#以上、いわゆる「経済産業省ホームページ」より、イルコモンズ調べ

------------------------------------------------------------------
[追記] くわしくはのちほど。ちなみに、このリストを手にとってみたときの第一印象は、
「これはシンドラーのリストだな」と思いました。つまり、このリストに載ってないものは、
殲滅し、浄化し、「最終処分」せよ、ということか、と。
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by illcommonz | 2006-03-30 17:55
▼本日休筆
d0017381_6445895.jpg デス。
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by illcommonz | 2006-03-30 06:46
▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第一部
d0017381_2394174.jpg【解説】 このテクストは今から3年前に雑誌『現代思想』の
「帝国を読む」特集号(03年2月号)のために書いたもので、
イルコモンズ名義で発表した最初のテクストです。そして、
イルコモンズは、このテキストから生まれました。

もともとは、現代美術(家)の視点からアントニオ・ネグリと
マイケル・ハートの著書『帝国』の評論を書くようにと、
依頼をうけたのですが、ご覧のとおり、この特集号には、
S・ジジェクや市田良彦、長原豊、陳光與といった名うての
書き手たちが名を連ねていて、そんなところでヘタに
解説めいたものを書いてみたところで、とても太刀打ち
できないだろうと考えた末に、ルーブ・ゴールドバーグの
漫画みたいに、『帝国』というテクストにいろんな雑多な
ものをつなぎあわせて、独自にアレンジメントし、おもに『現代思想』やネグリとハートの
本の愛読者以外の読者にむけて、『帝国』という本を全部読み、すべて理解しなくても、
このテクストのなかには、いろんな用途や目的にあわせて使える"パーツ"や"フレーズ"が
たくさんコンパイルされているという合図(コール)を送るつもりで書いたものです。

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ルーブ・ゴールドバーグ
「妻への手紙を投函し忘れぬこと」
ご覧のとおり、「帝国」「マルチチュード」から始まって、「グローバリゼーション」「消費社会」
「万博」「ダダカン」「目玉男」「岡本太郎」「暮しの手帖」「花森安治」…といった具合に次々と
話題がシフトしてゆき、いわば、DJメガミックスのような「雑種のテキスト」になっています。
特に第三部は「花森安治論」として読むこともできますので、いまちょうど世田谷文学館で
開催中の「花森安治と暮しの手帖」展のためのイントロダクションのようなものとして
編集しなおしてみました。

これを書いてから3年が経ちますが、いまでも基本的な考えは変わっていません。ただ、
おしまいの方に書いている「抵抗の地平」としてのアンダーグラウンドについては、多少、
考えが変わりました。いまは、アヴァンギャルドでラジカルな抵抗の表現よりもむしろ、
(イル)コモンズ的な暮しのなかでの抵抗のほうに関心がむいています。

いずれ機会があれば、また書きなおすかもしれませんが、とりあえずは、この状態で、
コピーライト・フリーのテキスト(無断引用・無断転載可)として、パブリック・ドメインに
アップしますので、「花森安治と暮しの手帖」展のためのイントロダクションのみならず、
「イルコモンズ・アカデミー最終講義」のサブテキストとして読んでいもらえれば幸いです。

「ぼくらの許可なく、この歌を歌った者は、ぼくらの友だちである。
何をしてくれたって構わない、公表しても、書いても、歌っても、
踊っても、ヨーデルにしたって構わない」
(ウディ・ガスリー)

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d0017381_23363783.jpg「見よ ぼくら 四人称複数
イルコモンズの旗」WEB版(2006年)
[●=イル ■=コモンズ]

著者たちの了解を得ず無断で、このテキストを
引用および転載することを禁ずることを禁ずる。
*copyright free

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d0017381_042323.jpg●やまのあなたの空とおく、帝国は亡びるとも、
帝国主義は死なず、と人の云ふ...はずが、
いまや「帝国主義」が亡(ほろ)んで、その
屍(しかばね)のうえに「新たな帝国」が君臨
しようとしているんだそうだ。ネグリとハートの
『帝国』にそう書いてあったよ。「帝国」なんて、
とっくのモダンの昔に死滅したはずなのに、
今やそれが、グローバル企業やWTOなんかに
姿をかえ、その超国家的パワーと最新のテクノ
ロジーを使って、僕らの暮しと生活を根こそぎ
支配しようとしてるらしいね。

■マイクロソフト、マクドナルド、ディズニー、GAP、そして古くは、コカコーラ社の
ビジネス・モデルが「帝国」のそれだ、というのは、これまでにもずいぶん云われ
てきたことだから、いまさら、という気がしなくはないけど、たしかに、これまで
「グローバル・ビレッジ」だとか、「宇宙船地球号」だとか、もっぱら善のイメージで
とらえられてきた「グローバルな世界」が、実は、巨大な悪の帝国と化していて、
いまや地球は「帝国の惑星」なのだと、グローバルな世界の暗黒面を暴いてみせた
ところが、ベストセラーになった理由なんだろうね。

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●ベストセラーになった理由は「帝国 Empire 」というストレートなネーミング
にもあるね。「スター・ウォーズ」を見たことがあれば、こどもにだって分かる言葉だ。

■ただ、分かりやすい反面、古いタイプの「帝国」と混同されてしまうという欠点が
なきにしもあらずで、しかもネグリとハートがいう新しいタイプの「帝国」は実のところ、
かなり厄介なしろものだね、なにしろそいつは、中心もなければ領土もなく、しかも、
いたるところに偏在すると同時に、どこにも存在せず、つねに越境し、流動することを
やめないというものだからね。

●だからこそ、名前が必要なわけで、名前があれば話題にしやすいし、話も通じやす
いからね。

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■それにしても、「脱領域的」で、「ハイブリッド」というと、これまでは、ポスト
モダンやポストコロニアリズムの反体制側な抵抗者たちの専売特許だったのに、
いまや敵までがそうだというのには、正直よわってしまうね。僕らがたのみにして
きた戦術が、新たな帝国への抵抗の手段としては、通用しないというのは、実に
悩ましいかぎりだ。それに、ちょっと前までは、グローバリズムの時代を生きぬく
ための標語として「シンク・グローバル!アクト・ローカル!」なんて云われてたけど、
もはやローカルは、帝国に対する抵抗の拠点とはなり得ないというのがネグリと
ハートの主張だからね。

●「シンク・グローバル、アクト・グローバル!」って書いてたね。そもそもローカルと
グローバルという二分法自体がまやかしであって、それが敵を見誤らせるのだと。

■そして、ローカルを囲い込んでいる帝国の壁を突破し、そこからユニバーサルに
リンクせよ、エクソダスは何よりまずローカリズムからの逃亡だとも書いてたっけ。

●そもそも巻頭句の「どんな道具も右手に持てば武器となる」というフレーズ
からして、ネグリたちの包み隠さざる政治的意図というか、願いは、この本を
抵抗のバイブルとする抵抗勢力が現れるてくることなんだろうね。

■そう云ってしまうと身も蓋もないけど、現実問題として坐っている人間を立
たせるのが一番難しいわけで、消費社会の暖衣飽食の中ででっぷり肥え
太った羊たちをいかにして未来の狼の群れにつくりかえ、庶民の中で眠り
こけている力を抵抗の底力として目覚めさせるかという難問中の難問に
真正面から挑んでいるわけだ。それに、もうすぐ出版されるネグリの次の
本のタイトルは『革命の定刻』というらしい。そこでネグリは、革命はいつ
起こるかという、これまた難しい問題と正面から格闘している。

●かたやネグリとハートが教える新たな帝国への抵抗の構えは正面切った
ものじゃない。それこそモダンの昔のように真正面から相手に挑んでゆく
対決の構えではなく、斜めへ斜めへと向かう斜向性の構えでなくてはならず、
新たな帝国との闘争は、滅却と離脱の戦術において勝ち護られると云ってる。
いわばマイナスのたたかいだ。もとより帝国が胴元になっている資本主義の
ゲームとそのルールの中では到底勝ち目はないから、まずはそのゲーム
から降りること、そして帝国の管理から身を逸らし、姿をくらましながら、
帝国の身体に風穴を空けてゆくのが新たな抵抗運動の活動方針のようだね。

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■それがネグりたちの云う「道なきところに抜け道を見つけ、壁を突破してゆく
新たな野蛮人」の身のこなしでもあるんだけど、身というものは立ててゆか
なければならないものでもあって、野蛮人は帝国への抵抗の中で新たな
暮しのモードを発見しなければならないとも云っている。この暮しということ
ついてはまた後で話すとして、『帝国』の読みどころは帝国もさることながら
マルチチュードだね。

●そう、もし二十一世紀に奇跡というものがあれば、資本主義の消滅が
それだと思う。どんなに想像を膨らませてみても、資本主義が終わった日の
街の光景やその翌日からの暮し、そしてそこでのしあわせというものを
僕はリアルに想像することができなくなっている。ネグリたちが云うように
世界市場の完全なる実現が帝国主義の約束の地であり、終着点であり、
世界の終わりだとすれば、尚更のことその彼岸を考えることは難しい。
無理に想像しようとするとカタストロフとその後の廃墟しか思い描けない
始末だ。酷い想像力の貧困だとは思うけど、これが僕の実感だ。でも、
未だその影でしかないとはいえ、マルチチュードの群像がイメージとして
投げ与えられたことで少しは想像力も働くようになった。想像することも
立派な非物質的な労働だからね。さしあたり今は仮想現実的なもので
しかないけど、それをアクチュアルなものとして想像する糧にはなった。

d0017381_0592029.jpg
■思うにネグリとハートの真骨頂は負の状況を逆手にとって危機を好機
に転じさせる転覆劇というか逆転劇のシナリオメイキングにあると思う。
それは半ばヤケクソの楽観主義と云えなくもないけど、そこがまた魅力
でもある。とはいえ彼らが物語る革命のストーリーはトランプの大貧民
みたいに一気に全てがひっくり返るという革命のロマンティズムがなき
にしもあらずで、そこは頂けないけどね。

●「インテルメッツオ=(間奏曲)」の章はタイトルからして『ミルプラトー』
を思わせるね。インテルメッツオはリゾームの別名で、ノマドの生活は
インテルメッツオなのだとドゥルーズとガタリは書いていた。この章の
読みどころはマルチチュードだけど、見逃せないのは、マルチチュード
が帝国とインターフェイスしあっている管理の局面だ。ネグりたちによると、
新たな帝国の管理は、フーコーが暴いてみせたような、躾(しつけ)や
監視や処罰ではなく、帝国はそうした規律化を行う特殊な施設や機関
を持たないという。帝国には搾取の場がない、ということはつまり、僕ら
の生活のすべての場がそうだということで、帝国は僕らを野放しにし、
自由気ままに活動させながらも、僕らの生活にがっちり喰い込んで、
僕らの生を根こそぎ喰い物にしている。

d0017381_1164120.jpg
■とりわけ消費生活者という身分でね。そしていまや帝国の支配は
僕らの脳と身体にダイレクトに及んでいるわけだけど、もっともこの
へんのことはこれからあちこちで解説されるだろうから、そちらに
任せるとして、僕流に云ってしまえば、帝国の管理は、征服でも
植民地化でもなく規律化でもない、24時間365日、至れり尽くせりの
サービス地獄、でも知らぬがホトケの生の完全管理。ありがたいのか
ありがためいわくなのかろくに判断のつかないような現実だ。僕は、
帝国の管理とは何か、という問いには答えられないけど、帝国で
生きる気分はどうか、という問いには帝国の六十三億分のーの
下僕として、こんな感じだと答えたくなる。

●もともと僕らは定職のない無産者だから、労働者の立場ではなく、
ルンペン生活者の立場から『帝国』を読んだわけだけど、そんな
僕らの毎日の衣食住をはじめ、趣味や娯楽、睡眠から栄養補給、
はては恋愛から遺伝子まで生活のあらゆる場面に手厚いサービスが
用意されていて、いつどこにいても、たとえ移動している時でさえも
空から衛星が面倒をみてくれる。そういうきめ細やかなミクロの
管理だ。でも、なにひとつとして無料ではない、かといって地上に
逃げ場はないし、帝国には外部はない、ローカルもない、そして
「何物も通貨からは逃がれられない」、これが帝国ライフの掟であり、
サービスという名の下における柔和で横暴なる管理だね。

■我、買うゆえに我あり。これはバーバラ・クルーガーの箴言だけど、
実際のところ僕らは消費のための労働と消費のための余暇という
二つの、というより、二つきりの消費者としての生を24時間365日
生かされている。帝国ストアが売り出す商品のとりこじかけの明け
暮れに他ならない消費者の生をしこたま生かされている。帝国の
マーケットは眠らないし休まない。時と場所とを問わず、どこにいて
も、たとえそこにいなくても、そこかしこで、見よ、食え、買え、買い
かえよ、そして世界に向けて情報発信するのはあなたです、と
勧めてくれる。汝、自らを富ませよ」が帝国ライフのモットーだ。
帝国に奉仕されているのか奉仕させられているのか、愉快なのか
不愉快なのかろくに判断もつかないありさまだね。
........................................................................
d0017381_116232.jpg 
 [間奏曲]
 インビジブルな元・帝都で
 すきまなく飛び交う怪電波
 高度資本主義のメッカ
 敗者の肉を食らうハイエナ
 出せ 払え さらに使え
 迫りくる帝国の影

 リアルが歪んだ
 あの帝国 からんだ とたんだ
 経費は かさんだ 景色は すさんだ
 あの帝国 からんだ とたんだ
 事実を つまんだ 
 ディテールは ずさんだ

 スチャダラ・パー「Shadow of the Empire」
.....................................................................................
 (つづく)
[PR]
by illcommonz | 2006-03-30 01:20
▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部
【第二部】
d0017381_4152975.jpg
●問題は帝国はすなわち僕ら自身だということで、帝国のなかの私、
私のなかの帝国というふうにすら分節化できないくらい帝国と僕らの
存在は癒着している。僕らの身体は帝国に接続されていて、
帝国は僕らの快楽原則にたかることで栄えている。僕らの髪には、
帝国シャンプー、眼には帝国コンタクト、耳には帝国ウォークマン。
そして僕らの脇には帝国デオドラント、指には帝国ジュエリー、
胃には帝国ドラッグと僕らの全身は帝国にまみれている。僕らの
移動力は帝国エアの力だし、通信力は帝国テレコムの力、情報
検索力は帝国ネットの力で、僕らの金まわりは帝国ファイナンス
の力、そして僕らの愉しみは帝国ランドにある。そこに一つだけ
欠けているのは抵抗で、帝国にはレジスタンスのサービスがない。
もし帝国をこれ以上肥え太らせたくなければ、僕ら自身が日々の
生活の中でサービスに抵抗し、肥え太ることをやめなければなら
ない。云ってみればネグリとハートは生のダイエットを奨めている
わけだ。そのためには欲望を滅却しなければならない。買うゆえに
我ありというコギトから離脱しなければならない。帝国は僕らの
身体にこびりついた贅肉のようなものだから、ワークアウトする
ことで滅却させ、それを創造的で非物質的な労働のエネルギーに
まわして、新たな抵抗の底力となるバイオパワーに変換しなけれ
ばならない、ということのようだね。

■僕らにとってよりシビアなバイオポリティクスの話をしようか。
『帝国』にコンピュータの話は出てくるけど、携帯電話の話はあまり
出てこないね。インターネットに関する議論の中でちょっとふれられ
ていくらいだけど、目下の僕らの生活のなかで最も強力なバイオ
ポリティクスのマシンは携帯電話だね。あれは身体に直接ふれる
ものだし、脳に繋がるものだ。何より移動する個人に働きかけ、
場所と時間を越えたコミュニケーションのサービスを提供してくれる。
メールの送受信から画像の転送、着信音の提供までサービス満点。
いまどき携帯電話を持ってないとマイノリティー扱いされるし、
必要のないコミュニケーションの飢餓や疎外を煽っている。
無用なトラブルや犯罪が後をたたないけど、僕らはもはや携帯
電話のない生活に後戻りできなくなりつつある。携帯電話を
紛失した時のパニックやショックときたら大変なもので、情報や
記録だけでなく、欠けがえのない生活の思い出まで失くしたような
気がするというからね。

●電車に乗ると乗客の半分くらいがじっと下をうつむいて自分の
携帯電話をいじくっていることがある。さながら熟練工のような
指さばきでメールを点検し、返信し、情報をこまめに整理して
いるのを見ると、この寸暇を惜しまぬ勤勉な労働が帝国の通信
事業を支えているんだな、とつくづくそう思ってしまうよ。それに
もし万が一にでも携帯電話の携帯が強制され、政府や警察、
司法機関の管理の手に落ちたらその力は恐ろしいものがあるね。
いつどこにいたか誰と連絡をとったかも全部バレてしまう。
それこそ何物も携帯電話から逃がれることはできないなんて
ことなったら、恐ろしくないかい。

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■ネグリたちが日本の携帯電話事情に通じていたら、多分そこが
降りどころの一つだと云うだろうね。帝国の搾取と管理のシステム
から身を逸らすとすればそこだろうし、不服従と抵抗を表明すると
すればやはりそこだろう。それこそ君がやったみたいに携帯電話
を電磁波ノイズの発振器にして電子楽器の一部にしてしまうのは、
電話会社からすれば商品の明らかに間違った使用法で、もし
それで電話が壊れても修理してくれないだろうけど、ある意味
それは携帯電話を使った創造的な非物質的労働で、通信以外の
非正規的な使用で帝国の貴重な社会資本である電話を雑用化し、
もてあそんでいるという風に見れば、帝国の支配へのささやかな
抵抗になってたわけだ。

■ただ、あれを展示した時は電磁波の人体への影響の方に人の
関心がいったようで、そういう風には見てもらえなかったけど、
狙いはそうだったんだ。いずれにせよ、こうした抵抗は展示や
実演という社会的デモンストレーション行為が伴わなければ
あまり意味がなく、それをやってはじめて協働の可能性も
生まれてくるわけだからね。

●さしあたり携帯電話に関して良いニュースと悪いニュースという
ことで云えば、良いニュースは携帯電話が国家や警察の手に
落ちてないということで、悪いニュースは携帯電話はそうした
旧式の管理が追いつかないくらいのスピードで進化している
ということだ。そして最悪のニュースは、僕らがもはや携帯電話
のない生活に後戻りできなくなりつつあるということだろうね。

■ネグリたちは帝国の中心には真空地帯があって、マルチチュード
の抵抗はそこで起きるという。携帯電話ひとつとってみても、その
オルタナティヴな使用法を発想する創造的労働の余地は残されてる
と僕は思う。もっともこれはニュースではなく希望的観測だけどね。

●ここでもう一度、話をマルチチュードに戻すと、ネグリとハートは
マルチチュードの最重要人物としてアッシジの聖フランチェスカを
ひきあいにだしてるね、それも本のいよいよ一番最後のところで。

■『ミルプラトー』は、強度になること、動物になること、女子供に
なること、という奇怪な生成変化のレッスンに満ちた本だったけど
『帝国』で新たに追加された最新の生成変化のレッスンは、貧者に
なること、貧乏になること、というのが、それのようだね。

●汝、自らを富ませよ、というのが帝国の至上命令だとすれば、
たしかに有効なレッスンかもしれない。昔から「貧すれば鈍す」
とか「貧すれば貪す」と云うけれど、考えてみれば、これは、
モダニズム時代の帝国の富国強兵的なイデオロギーだからね。
それに対してネグリたちは、貧すれども純さず、貧すればこその
抵抗を、と呼びかけているわけで、ネグリの次の本でも貧者
への期待が語られている。なかでもきわめつけは「貧者は
地上の神である」というフレーズだね。

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■それ以外にも、不屈の抵抗者たちの群像として、メルヴィルの
バートルビーやクッツエーのマイケル・Kがひきあいにだされている。
そうしたマルチチュードたちの影を慕いて、そのオルタネティヴと
なれ、そしてそれを超えよと、ネグリとハートは云う。たとえそれが、
フランチェスカのような古い時代に生きた人間であろうともね。
オルタナティヴということについてネグリはこう書いている。

 オルタナティヴはつねに<古いもの>へのある種の暗示、または、
 <古いもの>との類似を含んでいる


●そこで君に聞くけど、マルチチュードの影を感じ、その影を慕い
たくなるような人物をあげるとしたら、誰がいるだろうか。

■清貧といえばダダカンだね。ダダカンは今も健在で、仙台でタン
ポポを食べながら裸の貧乏暮しをしている。ダダカンのモットーは、
働かざること、他人より笑われること、向下を旨とすることだ。

●帝国の手先たる通貨の破壊者という点でもそうだね。何物も通貨
から逃がれることはできないが、ダダカンは通貨を理解しない。

■ダダカンは日本の前衛美術が異様な熱気を帯びていた六〇年代に
その中心から外れたところで独自の表現活動、主に裸のパフォーマ
ンスをやっていたんだけど、七〇年代になると紙幣を焼却すること
に没頭しはじめ、僅かな収入と極貧生活の中から捻出した金に火を
つけ、焼け焦げたお札を作品(?)としてあちこちに送りつけるように
なった。それ以外にも紙幣を服に縫いつけたりもしていたそうだ。

●まるでネグリとハートが描く、蓄めよ殖やせよ、我は預言者なり、
と通貨を身にまとって地上に現れるバイオポリティクスの使者のア
イロニカルな肖像みたいだね。

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■紙幣といえば、あともうひとり、七〇年に模造千円札事件で有罪
になった赤瀬川原平がいるけど、その赤瀬川が、ダダカンから燃え
た一万円札を送られた作家がそれを見て心底ゾッとしたという話を
聞いて、そのゾッとした理由についてこう書いている。

 その「ゾッ」というのは、芸術をはるかに越えてしまったところの、
 しかも越えながら芸術のまったくの中心点にささるところの、
 「ゾッ」であろう。


■これにならって云えば、ダダカンがやってみせたことは、時代を
はるかに越え、しかも越えながら新たな帝国のまったくの中心点に、
それこそゾッとつきさささっていたといえなくもない。当時の警察の
言い方をすればダダカンも赤瀬川も「思想的変質者」だけど、そう
いう昭和の変質者たちにこそマルチチュードの影を強く感じるね。

●ダダカンついでに云えば、七〇年の大阪万博でダダカンが万博の
シンボルだった太陽の塔に向かって全裸で疾走してつかまった時に
その太陽の搭の目玉に篭城していた通称・目玉男もひっかかるね。

■万博が帝国主義の祭典だという点でもたしかにひっかかる。

●その場合の帝国は、旧帝国だけど、七〇年の万博については
やや話が複雑なんだ。そもそも七〇年の万博は遅れてきた万博で、
敗戦後の日本が国際社会への復帰を宣言するインターナショナリズムの
イベントでもあったが、それは同時に敗戦国日本が国民国家としての
再生を国民にむけてアピールしてみせる国民国家の祭典でもあった。
つまりそこでは二つの政り事が凝縮された格好で行われたわけだが、
これにはさらにまだ続きがあって、江藤淳はこう書いている。

d0017381_4411788.jpg 万博とは巨大な遊園地であるが、
同時に人間動物園であることを
私は悟らざるを得なかった。
見物人はもちろん放し飼いの
動物である。各国のパヴィリオンは
いうまでもなく檻であり、そこに行くと
いろいろ毛色の変ったのが実地に
見物できる。人をもってこれをみたせば、
千里丘陵は巨大な国民教育の場と
ならざるを得ない。政府のねらいは
ここにあったのかも知れない。
いながらにして五千万人に一種の
国際的経験を味わせ、資本の自由化の
予行演習をさせること。


■そこで云われてるように大阪万博には日本の約半分にあたる国民
が集結した。後にも先にもこんな例はなく、国際博としても国家行事
としても未曾有の大成功だったが、それは江藤淳がいう資本の自由化
の予行演習や国外資本への呼びかけとしても破格の大成功を収めた。
これが3つめの祭り事で、やがてグローバルな資本主義の帝国の中へ
編成されてゆく日本の歩みが始まったのは七〇年の万博を機にして
だと思うんだ。身近な例でいえば、ケンタッキーフライドチキンの
第一号店がオープンしたのは万博会場で、これは大当たりした。
マクドナルドがオープンしたのはこの翌年だ。いつでもどこでも同じ味の
同じ物を食べられるというか、食べさせられる、帝国レストランの
サービスとその管理の中に僕らが吸収されていったのはこのあたり
からだと思うんだ。万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったけど、
今にして思えばそれは新たな帝国への進歩と融和だったのかもしれない。
七〇年の万博が未来の夢の生活として描いたテクノロジーとコンピ
ュータのとりこじかけの生活は今まさに僕らが生かされている新たな
帝国生活だったように思えて仕方がないんだ。

●『帝国』の中でも、一九七〇年代の初頭は資本主義諸国が工業
生産からサービス産業へと経済構造をシフトさせていった時期として
特にマークされているね。

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■だから、云ってみればダダカンは、万博で狂騒的に予行演習された
未来の帝国のどまんなかを貧者さながらの裸一貫で横切ってみせ、
かたや目玉男は転落すれば間違いなく即死の地上70メートルの
シンボルのてっぺんで、さながら貧者のように7日間飲まず食わずの
断食の抵抗を続けた。つまり二人はそれぞれ武器も何も持たず、
体ひとつの体あたりで、万博が描いて見せる未来の豊かに管理
された悪夢のような生活に異議を唱え、一瞬とはいえそこに抵抗の
連帯が生まれた。まるで来たるべき未来の帝国に対する抵抗の
予行演習のようにね。僕はこの二人の抵抗に何か情動の動きの
ようなものを感じるんだ。マルチチュードのモナド的な行動が、
指導者も組織もなく、波状的に連結して渦となり群れとなり、
抵抗の連帯を形成するのは、計量不可能な情動のはたらきあいを
通じてではないかと思うんだ。もっともこれはカネッティが「群れ」を
論じた時に云ってたことではあるけれど、情動の論理で決起し、
情動の共感で連帯するのがムルチチュードたち抵抗運動の姿
なんじゃないかと思うんだ。少なくとも二十一世紀の民衆が
イデオロギーや思想で行動し連帯するとは考え難いからね。
ちなみに目玉男は後の裁判でこう陳述している。

d0017381_4194419.jpg万博はその技術万能主義をもって、
人間の生活から文化を疎外し、
ことさらに新奇をてらった怪物的
建築と見世物展に奇形し、矮小化し、
創造的文化の破壊をおこなった。



■目玉男が太陽の搭を占拠した時、彼は赤軍の文字がはいった
赤ヘルを被っていたんだけど、実は赤軍派のメンバーでもなんで
もなくて、それは一種のコスプレだった。実際、この陳述を読んでも
その手の思想の臭いがしない。目玉男はこの事件以前にも札幌で
道庁の国旗を焼打ちしたり、広島大学のロックアウトに参加したり、
帯広で学園闘争を支援して逮捕されたりという具合に、各地を転々
としながらその行く先々で飛び入り的に運動に加担している。
もともと全国を放浪しながら詩をつくるために仕事を辞めたという
ぐらいだから活動家というより詩人の情動で行動する漂泊者なんだ。
彼は太陽の塔に篭城した時に四冊の本を携帯していたが、それは
『共産党宣言』でもなければ『擬制の終焉』でもなく、彼が携帯して
いたのは和辻哲郎と葉隠と万葉集、そして、萩原朔太郎の詩集だった。

●ずいぶん分裂した組み合わせというかアレンジメントだね。萩原
朔太郎といえば、永遠の漂泊者のアイコンだけど、その朔太郎は
「古風な博覧会」という題のこんな詩を書いてるね。

 透き通った硝子張りの虚空の下で
 あまたのふしぎなる建築が格闘し、
 建築の腕と腕とが組み合ってゐる
 このしづかなる博覧会の景色の中を
 かしこに遠く正門をすぎて
 人人の影は空にちらばふ。
 なんたる夢のような群集だらう。


●もし目玉男が太陽の搭のてっぺんで手持ちの詩集の中にこの詩を
認めたなら、朔太郎のエクリチュールと我が身とのアレンジメントに
強烈な情動を覚えた筈だ。というのも目玉男の眼下には丹下建造が
設計した透明のプラスティックを張りめぐらせた巨大な大屋根が
広がっていたわけで、その周りにはあまたの連結されたメタボリズム
建築が遥かに睥睨されたわけだから。まさに怪物的建築と見世物、
そして夢のような数の群衆がそこにいた。朔太郎はこう続けている。

 さうして西暦千八百十年頃の仏国巴里市を見せるパノラマ館の
 裏口から人の知らない秘密の抜穴「時」の胎内へもぐり込んだ。
 あゝ、この消亡をだれが知るか?


●太陽の搭の内部にはアメーバーから人類誕生までの進化の歴史を
見せるパノラマ式のツリーがあって、そこは人間の進化という時の
胎内だった。僕は万博から三〇年後に太陽の塔の中に入って目玉男
がもぐり込んだルートを辿ってみたことがあるんだけど、それは文字
通り秘密の抜穴のようだった。詩人の情動で行動する目玉男は
朔太郎の詩と我が身とをアレンジメントした文学機械になり、一種の
忘我の境地あるいはトランス状態の中で久遠の未来を夢想しながら
塔にとどまり続けたんじゃないだろうか。地上70メートルの戸外で
7日間飲まず食わずというのは人間業ではないからね。そして
ドゥルーズたちが云うように、目玉男は不動という速度を持った
動かない者となることで文学機械から抵抗するノマドへと生成変化を
遂げたとはいえないだろうか。無論、夢想や変身の消亡は知る由も
ないが、写真に残る目玉男の顔は何とも不思議な歓喜に溢れてないか?

■かたやダダカンはというと、前衛芸術家と俳人の情動で決起する
裸のミリタントだ。戦時中は陸軍の戦車兵として従軍していたというし、
戦後最初の国民体育大会に体操選手として出場したというくらい
だから運動神経は人並み優れている。ダダカンはその選れた肉体
能力と性器をアレンジメントして自ら戦争機械になった。武器も何も
持たずペニスひとつぶらさげた人間戦車に生成変化し、シンボルで
ある太陽の搭に向かって突進してみせたわけだ。

●そんな風に目玉男とダダカンはお互いの意図や計画を全く知らず、
てんでばらばらに行動した。しかも二人は既成の反博運動や赤軍派
に属さず、その異分子として斜めの方角から万博のどまんなかを
奇襲した。彼ら二人は、というより、二匹は、思想やイデオロギーで
動いたのではなく、万博に対する本能的な情動から行動を起こし、
それぞれに独自のアレンジメントを遂げ、かたや戦争機械となり、
かたやノマドとなって、そこでハプニング的に抵抗の群れをなした
んじゃないだろうか。

■ついでに云うと岡本太郎は、当時の全学連の運動には否定的
だったが、この目玉男には「イカすね、ダンスでも踊ったらよかろうに」
とエールを送り、レイブを呼びかけている。

d0017381_431690.jpg●イカすという反応はすぐれて情動的なものだ。
もともと岡本太郎はパリ時代にバタイユたちと連帯して
アセファル団の儀式や運動に加担していた魔術師の
弟子だから、太郎は太陽の搭をいただく国家の祭典が
かつて未遂に終わったコントル・アタックの代補の場と
なることを密かに望んでいたんじゃないだろうか。
太陽の塔の下のお祭り広場を設計した磯崎新も
六八年のミラノでのような占拠事件が起こるのでは
ないかという期待があったと後に語っているし、こう
してみると、みんながそれぞれに、万博を前にして、
分裂している。

■ドゥルーズとガタリにならって云えば、二匹それぞれが、あるいは
三匹それぞれが、戦争機械として、ノマドとして、魔術師として、
分裂した数匹であったから、それだけでもう多勢となり、マルチ
チュードの群れと化して、ほんの一瞬とはいえ、未来の帝国の
予行演習のハレの舞台に亀裂を生じさせたといえるかもね。
少なくとも、この群れの前に、未来の管理は一瞬、空転したはずだ。

d0017381_6184095.jpg
●甚だルーズな連帯だけど、でも実のところネグリたちは、マルチ
チュードの構成的な力を形成するのは熱情や情動そして知恵の
結集によってだと云っている。そこがネグリとハートの議論の穴や
弱さだと云われかねない部分だが、逆に云えば新しさでもある。
確かに情動による決起とその連帯は偶発的であてにならないもの
だけど、それだけにイデオロギーや思想のように統制もできなければ、
コンピュータによる予測も管理もできないものだ。計量不可能な
情動的連携のでたらめさと行動の野蛮さが逆に強みだともいえる。

■モナドの連帯についてドゥルーズはこう書いてるね。

 そこではふたつのモナドがそれぞれに、相手のパートを知らず、
 聞くこともないまま自分のパートを歌うのだが、にもかかわらず、
 完全に調和するのである。


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■そんな風に僕は、ダダカンと目玉男が万博に対して構成した抵抗の
ブロックにマルチチュードの群像とその影を感じるんだ。もっとも
それが起こったのが万博というハレの場であったこともあって、
搭の下からカッコイイーという情動的な声援を送った子供たちと
一部の美術評論家を除けば、それ以上の連帯はなかったんだけどね。

●子供といえば『帝国』の巻頭句にも引用されているW・モリスは、
子供の頃に万博見物に連れてゆかれ、そこで見た目くらましの
デザインに激しい嫌悪感を覚え、入場することを嫌がって会場の
入口で座り込みの抵抗をしたという逸話が残っている。おそらく
ダダカンと目玉男もそういう情動につき動かされたんじゃないだろうか、
つまり二人はそこで二匹の子供に生成変化し、野蛮児の情動で行動した… 
(つづく)
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by illcommonz | 2006-03-30 01:17
▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第三部
【第三部】
d0017381_3335554.jpg
■なるほどね、じゃあ今度は反対に、ケの生活の場で持続的な抵抗を
行ったマルチチュードをあげるとしたら誰だろう。

●花森安治がそうだね。花森は暮しの中の不屈の抵抗者だった。
僕は「暮しの手帖」の表紙の裏に書きつけてある次の花森の文章を
読むと、いつもきまって妙な感覚を覚えるんだ。

 この手帖は あなたの手帖です
 いろいろのことが ここには書きつけてある
 この中の どれか 一つ二つは
 すぐ今日 あなたの暮しに役立ち
 せめて どれか もう一つ二つは
 すぐには役に立たないように見えても
 やがて こころの底ふかく沈んで
 いつか あなたの暮し方を変えてしまう
 そんなふうな これは
 あなたの 暮しの手帖です


●まず「あなたの」という呼びかけがあり、それから「せめて、やがて、
いつか」と展開していった後に「変えてしまう」という決然とした句がくる。
そして最後にもう一度「あなたの」という呼びかけ。この花森の文には、
読み手の情動を喚起する独特の強度があって、なんだか本当に変え
られてしまいそうな気にさせられる。花森はこういう人を感化する情動
的なエクリチュールのセンスを大政翼賛会宣伝部時代に鍛えあげ、
戦後はそれを「暮しの手帖」の出版を通じた庶民の抵抗のために捧げた。
「見よ ぼくら 一銭五厘の旗」などの文筆を通じた抵抗もさることながら、
花森の独創的な非物質的労働としては商品テストがそうだ。

■あれは「商品テスト」とは云うけれど、むしろトライアルに近い。
それは単に商品の性能を計測するだけでなく、実際にとことん実用に
使ってみて、どこまで使うと機能が狂いはじめ、故障し、壊れて使い物に
ならなくなるかをシミュレーションテストするわけだから、試験というよりも
試煉だ。比較テストも単に性能を比べるというより、どれが最後まで持ち
堪えて生き残るかという、サヴァイバル・テストみたいになることもあるからね。
ある意味それは拷問でもある。

●トースターで4万枚のパンを焼いてみるとか、乳母車に人形をのせて
100キロの道を走破してみるとかね。それに必要とあれば、商品を
バラバラに分解して、まる裸になった部品だけを比べてみせるという
ことも辞さないしね。またそのグラビア写真が秀逸で、現場検証の写真
のようであったり、天井桟敷のアングラ芝居のようであったりと視覚的な
ショックを与える力があった。たとえば「愚かなりわが買物」のグラビアは、
バーバラ・クルーガーを先取りしていた傑作だと思う。

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■花森が「商品テストは消費者のためのものではない」と宣言して
いるように、商品テストは消費者に商品知識を与えて啓蒙し、不買
運動を起こさせることを目論んだものではなく、相手はあくまで企業
だった。そこが商品テストの異例性であり、花森はこう書いている。

 私たちは今、いつも<なにか>を買いたがっている。買いたくて
 うずうずしている人間の前に、まるでこれさえあれば<幸せ>が
 やってくるような顔をして、新しい商品がつぎつぎに現れたとき、
 商品をみる目など、一体なんの役にたつだろうか...なにもかしこい
 消費者でなくても、店にならんでいるものが、ちゃんとした品質と
 性能をもっているものばかりなら、あとはじぶんのふところや
 趣味と相談して、どれを買うかを決めればよいのである。そんな
 ふうに世の中がなるために、作る人や売る人が、そんなふうに考え
 努力してくれるようになるために、そのために<商品テスト>は
 あるのである。


■花森は商品テストを遂行するために企業の宣伝広告を一切雑誌に
載せなかった。したがって広告収入はゼロで、花森は自社の書籍の
販売収入だけで「暮しの手帖」を出版した。これは異常なことだよ。
ほかにこんな例はないと思う。「暮しの手帖」は文字通りのアウトノミア
出版で、この自主独立の姿勢は今でも貫かれている。

●花森が云うように商品テストの狙いは企業にまともな商品をつくらせる
ことなんだけど、実のところ商品テストには、商品の魔力を解除し、
商品の物神性をキャンセルしてしまう力があった。『買ってはいけない』
なんかとの決定的な違いはそこにある。アレは毒入り商品を告発する
けど商品の魔法はそのままだ。だからアレを読んでも結局は商品の
魔力に負けて毒と知りつつそれを買わずにいられない。だから毒にも
もちろん腹が立つが、毒の告発にも腹が立つ。

●当然、花森は商品テストの持つ脱魔術化の力に気づいていた筈だ。
というのもその当の花森自身、商品の魔力に人一倍魅せられてしま
うたちで、買うことの快楽を誰よりもよく心得ていた。つまりさっきの
花森の文は自分のことを書いているわけで、なにかを買いたくて
うずうずしてしまうのは花森なんだ。商品テストはなにより自分の
ためのものだった。花森はまさに我れと我が身のこととして消費
社会の欲望を誰よりも知り抜いたからこそ、その欲望に抵抗するため
自衛の手段として商品テストを発想し、それを「暮しの手帖」の命と考え、
自ら商品の拷問機械となり、商品と欲望に対して過酷な試練を続けた
のだと思う。つまり商品テストの真の相手は自分も含めた庶民の消費の
欲望そのもので、商品テストはその欲望を滅却させ、日々の消費の
ゲームから離脱するためのマイナスのたたかいなんだ。

■それは同時に、消費者に貶められ、消費者としての生を強いられて
いる庶民に<暮し>を奪還させるための失地回復のたたかいでもあった。
表紙の裏の文の中でも「暮し」という言葉が何度もリフレインして
力強いリトルネロをつくっている。そして七〇年の大阪万博のさなかに
花森は「見よ ぼくら 一銭五厘の旗」にこう書いている。

d0017381_3415275.jpg さて ぼくらは もう一度
 倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から
 おしまげられたり ねじれたりして
 錆びついている<民主々義>を探しだしてきて
 錆びをおとし 部品を集め
 しっかり くみたてる
 <民主々義>の<民>は庶民の民だ
 ぼくらの暮しを なにより第一にするということだ
 ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 
 企業を倒す ということだ
 ぼくらの暮しと 政府の考え方がぶつかったら
 政府を倒す ということだ
 それが本当の<民主々義>だ
 ぼくらは ぼくらの旗を立てる 
 ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
 ぼくらの旗のいろは 赤ではない 黒ではない
 もちろん白ではない 黄でも緑でも青でもない
 ぼくらの旗は こじき旗だ 
 ぼろ布端布をつなぎ合せた 暮しの旗だ
 ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる
 見よ 世界ではじめての ぼくら 庶民の旗だ
 ぼくら こんどは後へひかない


●帝国への抵抗の中で新たな暮しのモードと究極の民主主義を
うちたてることを唱えるネグリたちが目にしたら、それこそ共感の
情動にうちふるえそうなエクリチュールだね。

■そして、とどめはこの一節。

 一銭五厘を別の名前でいってみようか
 <庶民> ぼくらだ君らだ


■花森は一銭五厘の旗のことをこじき旗だと呼んでいるが、その
旗はドゥルーズたちがノマドの暮らしに馴染み深いものだとする
パッチワークでしたてられている。「その互いに関係づけられる
ことなく併置された断片からなる不定形の集まり」としてのその旗は、
貧者に生成変化した民衆がマルチチュードとなって結集する時の
旗のデザインとしてこれ以上のものはないくらいそれに相応しい
ものだ。

d0017381_3465539.jpg
●かたやネグリとハートは、暮しのモードの変革のみならず、
ジェンダーやセクシュアリティのバリアを越えた、いわば突然
変異体的な身体をつくることを熱心に奨めている。性の区別を
越えた新たな装いのモードなどがそれで、意外にそれが、何かが
変わったことの眼に見えるイニシャルなあかしとして重要だという。

d0017381_3454277.jpg
■それではますます花森安治だ。戦後の花森はパーマをかけた
長髪をポニーテールにしたり女物のスカーフをかぶってたりして
みせた。花森はスカートを穿いていたという伝説まである。それは
戦争をはじめた男たちへの、庶民から<暮し>を奪った大日本帝国の
軍国主義への、花森の体をはった、目に見せる抵抗であり、宣伝
工作だった。それは男であることの拒否であり抵抗でもあったが、
裏をかえせば、女への生成変化だともいえなくはない、と、こんな風に
僕らはダダカンや目玉男そして花森安治にマルチチュードの影を感じ、
その影に慕いたいという情動を覚えてしまうわけだ。

●極言すれば、マルチチュードは存在しない。在るのは、その存在の
気配である影や痕跡だけで、それはデリダがいう夢の政治のような
もので、常に未来から到来してくるものだ。つまり、誰それはマルチ
チュードであるのではなく、誰もがマルチチュードになり能るのであり、
いまここでマルチチュードであるといえるような個人は存在しない。

d0017381_3481537.jpg
■もとより群れとしてのマルチチュードは個人ではなく、三人称単数や
複数で語れるものではない。それはブランショが「他者」を指し示して
みせるときのやり方にならって云えば、四人称複数の群れがマルチ
チュードだといえる。そしてネグリたちがドゥルーズたちゆずりのもの
だという「コモンズ」とはそれのことだと思う。延々と続く斜字体の英文の
なかに次の一節だけが衝立していたのは、なかなか印象的だった。
かなり意訳だけど、次の一節がそうだ。

d0017381_3512347.jpg
 コモンズは
 解きはなたれた
 マルチチュードであり、
 その化身であり、
 その誕生である。

■でも四人称複数にしろコモンズにしろ、そうした概念をもった既成の
言語は存在しないし、そもそもぼくらは言語の外部に出ることもでき
ないわけだから、それこそ花森のこじき旗のように既成の言語線を
断ち切り、ちぐはぐな断片を並べかえ、それをパッチワークのように
縫い合わせ、文字通り、旗のようにその言語を社会に向かって立ち
上げてゆかなければならないというわけだ。シンク・グローバル、
アクト・グローバルの抵抗活動にもしカウンターアクトの陣地がある
とすれば、それは不法占拠したビルや辺鄙な山里ではなく、グロー
バルなアンダーグラウンドという広大なロケーションなんじゃないか
と思うんだ。帝国の乳母日傘の地上の世界にもはや逃げ場がない
としたら、あとはアンダーグラウンドだけだね。国境や監獄を越える
エクソダスやレジスタンスたちに脱け道を提供し、革命の震源地と
なってきたのは、いつもアンダーグラウンドだった。抵抗運動の
忘れられた陣地として、もう一度、アンダーグラウンドという平滑
空間とそこに眠る資源を発掘してみてもいいんじゃないだろうか。
もちろんいささかロマン主義的だと承知してはいるけど、この帝国の
空の下、その地下に過去のアンダーグラウンドたちと通じる抵抗の
坑道を掘りめぐらすこと、それをとりあえずの僕らの活動方針としよう。
昭和の思想的変質者たちの影を慕う、ぼくら四人称複数イルコモンズの
最初の旗揚げ仕事は、帝国の地下の穴掘りと昭和残響伝の伝承だ。

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(おわり)
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by illcommonz | 2006-03-30 01:09
▼人形劇団イルコモンズ
d0017381_22161198.jpgせっかく、たのしみにしていた
人形劇をみのがしてしまった
淋しさをまぎらわすために、
うちにある人形たちに芝居を
やらせてみることにした。
【第一幕】 事件のはじまり
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(つづく)
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by illcommonz | 2006-03-29 22:23