
「おお、わが友たちよ、
友がひとりもいない」
(アリストテレス)
「鳩山一郎はカレルギーと出会い、その友愛思想に感銘を受け、カレルギーの著作 『Totalitarian State against Man』 を 『自由と人生』(1952年)と題して自ら翻訳出版するほどだった。鳩山は翌年友愛青年同志会を結成し、この組織はのち日本友愛青年協会となり現在にいたる。また鳩山由紀夫の「友愛」思想も祖父一郎を介してカレルギ―の思想から影響を受けているともいってよい。」(「
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー」 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
たしかに「友愛」はうつくしい言葉ではあるけれど、だからこそ反対しにくく、また反対させないようにしたり、反対をふうじこめるという面も兼ね備えている。実際、「友愛反対!」などと云えば、それこそ頭がおかしいと思われ、悪者にされかねない。もちろん「友愛」は「敵対」よりいいが、政治家が「友愛」のような言葉をやたらと口にしはじめた時は注意した方がいい(それは「エコ」もまた然り)。利害が一致する同質的なもの同士が同質的なものたちだけで結ぶ「閉じた友愛」が必然的に仲間はずれやしめだしを生むという「友愛のあやうさ」については、デリダが「友愛のポリティクス」などで書いてるとおりだ。鳩山由紀夫が祖父一郎を通して、カレルギー伯爵からどんな「友愛」を学んだのか知らないが、はたして、その「友愛」に「他者」はふくまれているのだろうか。多くの友愛の政治に欠けているのはそれだ。「おお、わが友たちよ、ここは家柄のよい友たちばかりで、他者がひとりもいない」「おお、わが友たちよ、さぁ、この船にのりたまえ、これを飲みたまえ、これを食べたまえ、わが友愛のあかしに、わが友をまず優先しよう、他者はあとまわしだ」という友愛の政治はおそろしい。特に家柄のいい政治家が口にする友愛には-それが麻生の下品よりはましだとしても-くれぐれも気をつけよう。
とはいえ、鳩山幸はけっこう「他者」だったりするから、彼女がこんなふうに自由にのびのびと活動してるうちは大丈夫だろう。伝統的な価値観を重んじる人たちからはバッシングもあるだろうけど、「それはしちゃだめ、それは○○レディにふさわしくない、○○ファミリーらしくない」みたいな感じで考えや行動を制限したりして追い詰めるよりはずっといいと思う。
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「幸夫人、日本人学校で「友愛」説く 首相の外交をサポート」

こどもが、どうしていいのかわからず、かたまってるね。