今日の「もくもくフラッシュモブ」では、いつも自分が吸ってる、ふつうのタバコを、いつものように、ふつうに吸うつもりなのだが、JTの宣伝はしたくないので、自前のパッケージをこしらえた。いまはもう販売されてない、昔の「いこい」の広告をアレンジしてつくってみた。イルコモンズの祖母はたしか、この「いこい」を吸ってた、いや、ちがった、祖母は「たばこをのむ」とそう云ってた。これをデザインしながら、「おや、おまえもたばこをのむようになったかね」ということばを思い浮かべていた。そういえば、アフリカにいたとき、たばこは人にあげたり、人からもらったりするものだった。たばこを持ってるのに、人から「たばこをくれ」といわれて、たばこをさしださない人間は、「けち」や「人でなし」だといわれる。たばこは天下のまわりものなのだ。たばこの火もそうで、火はたばこの先から、たばこの先に移して、分かけあうものだった。反G8デモで逮捕されて札幌の留置所にいたとき、「運動の時間」というのがあった。それは、屋内のちいさな運動場に腰をおろして、たばこを吸う時間のことだった。たばこを吸いながら、外の世界ではあまり縁のない人たちから、いろいろおもしろい話をきくことができた、と、そんなことをぼんやり思い出しながら、のむのが、たばこである。昔の文化人類学者のように「たばこは文化である」とか云うつもりはないし、たばこが「煙たがられる」のは、たばこというものがもつ本来的な宿命で、それは仕方ないとは思うが、たばこを吸う人間は鬼でも悪魔でもない。ごくふつうの人間で、ただちょっと「こまった嗜好」をもってるというだけのことだ。と、そんなふうに、たばこについては、いろいろ考えがあるので、そういうことを「もくもくモブ」の場でゆっくり話してみたい。そもそも、たばこを吸うのに、あまり力をいれる必要はない。軽く口にくわえて、ほんのちょっと息を吸うだけである。そうしないと、「いこい」にならない。要するに「上」からの一方的な「禁止」で、うばわれたくないのは、「いこい」なのである。きりきりと正論を吐くだけでは息がつまるし、息がぬけない。たしかに、たばこは「こまったもの」だし、病気の原因になりかねない「イルなもの」だとは思うが、それを承知で、清濁あわせのみながら生きてみたい。このパッケージのような顔でおおらかに生きてみたいと思う。あいにくの雨だが、今日の「もくもくフラッシュモブ」が、「いこい」のあるスローモブになればいいなと思っている。