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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]
▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_15223994.jpg
▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]

【アンテルナシオナル・シチュアシオニストのコピーライト・ポリシー】

▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_1523556.jpg 「この機関誌の編集規則は、集団的編集である。個人によって書かれ、個人の署名のあるいくつかの記事も、われわれ全員に関係があり、その共同の探求の個別的側面と見なされなければならない。われわれは文学雑誌や美術雑誌のようなかたちで生き残ることには反対している。「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」に発表されたすべてのテクストは、出典を明記しなくても、自由に転載、翻訳、翻案できる。」(「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」より)

[関連リンク]
▼シチュアシオニスト・アンテルナシオナル・オンライン(英語)
http://www.cddc.vt.edu/sionline/index.html
▼シチュアシオニスト・オンライン文庫(日本語)
http://d.hatena.ne.jp/situationniste/
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【カルチャージャミングとシチュアシオニスト】

▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_15232098.jpg 「ほとんどの人たちは「カルチャー・ジャミング」という言葉を聞いたことがないと思うが、これは別に新しいムーヴメントではなく、僕らは「カルチャー・ジャミング」を過去にさかのぼる様々な革命の連続体として位置づけている。その中には、初期のパンクスや、六〇年代のヒッピームーヴメント、(レトリスト・インターナショナルから生まれた)シチュアシオニスト・インターナショナルと呼ばれるヨーロッパの知識人や、コンセプチュアルアートの作家たちのグループ、それに、シュールリアリストやダダ、アナーキストたちもふくまれている、そのなかで最初に、アナーキーなスピリットを、現代のメディア・カルチャーに向けたのは、シチュアシオニストたちだった。彼らは、メディアがつくる「スペクタクル」がじわじわと人びとの精神を蝕んでいることに早くから気づいていた。

▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_15241798.jpg その意味で、彼らはポストモダン時代の革命家だといえる。シチュアシオニストは、8人の芸術家や作家がはじめたもので、短命なグループだったが、何世代もの学生や芸術家、急進派たちにアナーキーな衝動をあたえてきた。シチュアシオニストたちは「常に新しい生き方」へのコミットメントを宣言してきた。自由だけが彼らの関心事で、そのためには手段を選ばなかった。消費資本主義と共産主義のせいで、一般の人たちの創造性はよわってはいたが、息の根をとめられたわけではない。シチュアシオニストにとっては、だれもが状況の創造者であり、パフォーマーであり、そしてそのパフォーマンスこそ、その人の人生ということになる。シチュアシオニストは、現代のスペクタクルについてくりかえし論じてきた。このスペクタクルには、広告看板から、アート、サッカー、ラジオ、テレビまであらゆるものががふくまれる。かつては誰もが自分で直接体験してきたことが、いまは別の誰かによるショーになってしまっている。生きた体験は、メディアがつくるイベントやあらかじめパッケージ化された経験にとってかわられてしまっている。シチュアシオニストは「人さらい」という言葉をつかい、スペクタクルが僕らのリアルな生をどこかに連れ去ってしまっているのだという。

▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_15243226.jpg ドゥボールはいくつかの効果的な方法をあみだした。ひとつは「デリーヴ」だ。これはダダから借りてきた概念で、字義通りには「ドリフト=さまよい」を意味する。シチュアシオニストたちはこれを「ゴールのない移動」と定義し、デリーヴする者は、都市を浮遊しながら、あらゆるものとオープンに交わり、日常生活のなかでの偶然の出会いからうまれる感情の分布をオープンにしてゆく。この開放性が重要で、デリーヴは、労働と娯楽による二重の支配をくつがえし、新しい生活様式の「あそびに満ちた創造」のモデルとなる。ドゥボールにいわせると、「よい生き方」とは「社会におけるあらゆる気晴らしや労働にシステマティックな疑問をなげかけ、そこでの幸福という考えに全面的な批判を展開すること」だという。もうひとつの方法は「デトーナメント」だ。これはスペクタクルによって「誘拐」されてしまったリアルな生き方をとりもどす方法だ。文字通りには「向きを変える」ということで、「デトーナメント」は、スペクタクルなイメージや環境、ムードや出来事の向きを変え、その意味を逆転させたり、反転させるものだ。かつてドゥボールは、レーニンの有名な肖像画のひたいに裸の女性の画像を置いて、こんなキャプションをつけてみせた。「世界は乳房の先から反転する」。また、ドゥボールは「回想録」を目の粗い紙ヤスリでくるみ、本棚に置くと他の本をキズつけるようにしくんだ。「デトーナメント」の精神は、敵の陣地に侵入し、「スペクタクルの価値を切り下げる」ことだ。

▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_15245978.jpg 現代のスペクタクルは、ドゥボールたちが想像していたよりもはるかに、人びとの生き方を受け身にし、分離を大きくしている。より強大なスペクタクルが、私たちの精神の奴隷状態の上に君臨している。私たちはそれに抵抗する自由を持っているが、そんなことが起きたためしはない。スペクタクルは、社会をコントロールする道具で、無限の選択という幻想を提供するが、実際にはあらかじめ選択されたものしか選べない。アドベンチャー映画、自然環境番組、セレヴたちのロマンス、政治的スキャンダル、スポーツ、ネットサーフィンなどなど。人びとは自分の余暇をプログラムされた娯楽によって食い荒らされるがままで、自分のたのしみをもはやコントロールできていない。「ショーをとりもどせ」。それがシチュアシオニストたちの解決法だ。

▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_15252495.jpg 「カルチャー・ジャミング」は長期にわたって人びとの性向を調整してきたスペクタクルの流れをストップさせるということだ。流れをとめれるどうかはショックという要素にかかっている。グリル・マーカスはこう云っている。「ただしい場所とタイミングで、デトーナメントがただしいサインを送れば、世界の見方の大逆転が起きるだろう」。その瞬間、スペクタクルは空虚さをさらけだし、誰もがその正体を知るはずだ。そうやって、呪いはとかれ、革命がはじまる。少なからぬ人びとが古い習慣からぬけだし、疑問をなげかけ、反逆をくわだて、新しい世界を夢みるようになるはずだ。そして新しい世代は「ひとつ残らず、すべてを変えてしまうだろう」。シチュアシオニストたちはそう信じていた。

 ドゥボールはほとんど不世出の予見者だった。自殺した直後と一九六七年にはフランスで英雄視されたこともあったが、晩年は不興で、次第に忘れ去られている。ドゥボールはおそろしく理想主義的で、ものの見方も極端なところがあったが、独立独歩をつらぬき、スペクタクルとは無縁の生涯を送った。例外は、病苦の果てに銃で自分の心臓を撃ちぬいたことだが、彼はこのスペクタクル的な自殺を抜け目なく演じてみせた。彼にとって人生はまさに終わりのない祭りだった。(カレ・ラスン「カルチャー・ジャム」から抜粋して翻訳※)

[関連リンク]
▼アドバスターズ
https://www.adbusters.org/


▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_15313633.jpg[注記] カレ・ラスンのこの本には、2006年に刊行された日本語版(「さよなら、消費社会~カルチャージャマーの挑戦」加藤あきら訳 大月書店)があるが、カルチャージャミングとシチュアシオニストについて述べられたセクションのなかに、いくつかの誤記(例:ドゥボールが自殺したのは1967年ではなく1994年)や、あまり一般的でない人名・団体名の表記がみられる(例:ジョニー・ロッテン、グレイル・マーカス、国際状況主義者など)。それをみていて、「訳をうらむな、自分で訳せ」と思いたち、同訳書を一部参照しながら、原書から訳しなおしたのがこのテキスト。また、日本語訳版が底本としたハードカバー版(1999年)と、イルコモンズがもってるペーパーバック版(2000年)には若干の異同があるようで、イルコモンズが持ってる版にはかなり加筆修正が加えられている(例:紙ヤスリを表紙にした「回想録」やレーニンの肖像画の改変など)ので、そこも補って訳しておいた。

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【スペクタクルに反対して】

▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_15264410.jpg 「一九九四年十一月三十日、ドゥボールはシャンポーの家で、自らに向けて銃を発射し、自分自身を殺したが、これは、いわゆる「自殺」ではなく、身体の自由が利かなくなり、自己の意思に反して病院でのさまざまな治療を施されることを拒否するための「尊厳死」であったと、ドゥボールの最初の妻ミシェル・ベルンシュタインは、この夏、筆者に語ったが、まさにその通りだろう。(...)ドゥボールは最期まで、有名人の「死」という、スペクタクルの社会にうってつけのスペクタクル化の材料をも、自己の強い意思の元に置き、自分の死がスペクタクル化され、消費されることから自らを防衛したのである。」
(木下誠「映画に反対して・訳者あとがき」1999年)

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【ポスト・シチュアシオニストたち】

▼映画に(反)対してから(逸)脱して/イルコモンズ資料1[テキスト篇]_d0017381_15273291.jpg 「ポスト・シチュアシオニストとは、シチュアシオニストの継続であるとともに、その批判でもある。近年のシチュアシオニスト批判として注目されるのは、ジャック・ランシエールの「解放された観客」(2008年)だろう。従来のスペクタクル批判において「観客」はイメージにとらわれた無知な存在であり、それは積極的な行為に踏み切ることのできない愚かな消費者とみなされてきた。だが、ランシエールがデモクラティックな主体として肯定するのはまさにその「観客」であり、デモクラシーはイメージにとらわれたまま行動する「ボヴァリー夫人」たちによって体現される。イメージの氾濫は、既成の社会秩序をゆるがす悪しき模倣をうながし、身分や立場をわけまえない愚かな言動を生み出す。だが、そうした模倣や分をわけまえない言動こそデモクラティックな力能であり、(...) 「観客」であることと行動すること対立しない。デモクラシーは万人が役者であることではなく、万人が観客のまま表現することを意味する。(谷口清彦「ポスト・シチュアシオニスト」「VOL レキシコン」 2009年)

▼VOLコレクティヴ
http://conflictive.info/contents/volzine.htm
by illcommonz | 2009-10-16 15:32
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