▼ある人類学者の、誕生/死去 (1908-2009)
「幻想は綾を織りはじめる。まだ安売りも、汚れも、呪われもしていない光景が
燦然と輝きわたっていたときの、真の旅行者の時代に私は生きたかった。」
(クロード・レヴィ=ストロース「悲しき南回帰線」)
「罪な奴さ、嗚呼、パシフィック、碧く燃える海、どうやら俺の負けだぜ、まぶた閉じよう。
幻でかまわない、時間よとまれ、生命の眩暈のなかで。」(矢沢永吉「時間よとまれ」)
▼「悲しき熱帯」レビストロース氏死去 「構造主義の父」
http://www.asahi.com/obituaries/update/1104/TKY200911030404.html
ところで、「私が「構造主義」の父だとしたら、「構造主義の母」はどこにいるのですか?」と、構造主義者レヴィ=ストロースは、そう問い返したことがあっただろうか、いや、レヴィ=ストロースは、エスプリはあっても、ユーモアに欠けていた。失われた未開社会へのロマンはあっても、現代世界での政治活動に欠けていた。たとえば1968年の5月、レヴィ=ストロースはパリで何をしていたのだろうか?おそらくいつもと変わらず、研究室のなかで膨大な研究カードやモビールを前に、構造分析をしてたのではないだろうか。デリダがいうように、構造が不変だとしても、第一項と第二項は決して平等ではないし、そこは政治的無風状態ではない。「時間よとまれ、私は人間の普遍的な精神を、このままずっと分析していたいのだ」というわけにはいかないのだ、特にこの野蛮なグローバル世界では。資本と労働力の不平等な対立構造は、場所と時間をこえて、今も変わらずそこにあり、自然(環境)と人間(精神)の破壊や搾取は、変換された構造のなかで、いまも続いている。