
いま、映像は、YouTube で、いくらでも好きなだけ見れる。一生かかけても見きれないくらい、たくさんの映像がある。YouTube 以外にも、いつでも・どこにでも映像がある。ケータイの中にも電車の中にもトイレの中にも映像がある。あらゆる場所に映像のある「映像のユビキタス状況」である。しかも、その数は毎マイクロ秒ごとにどんどん増えてゆく。そして、もう誰もそれをとめることができなくなっている。もしYouTube で見ることのできない、ものすごい映像があったとしても、わざわざ横浜まで電車に乗って見にゆくほどの映像があるとは思えないし、たとえ、それを見のがしたとしても、あんまりくやしくない。なぜなら、映像はいくらでもあるし、ものすごい映像は他にもたくさんあるからだ。映像は自分の家や自分の手の中でみるもので、ぼくらは映像をみるために、わざわざ外へ出かけたりはしなくなりはじめている。ぼくたちは、そんな映像の大量消費時代、映像のインフレ時代をすでに生きている。そういう状況のなかで、いま、「国際映像祭」を開催することに、はたして、どれほどのインパクトがあるのだろうか?
たぶん、もう、ない。

もはや映像に、かつてのようなスペクタクルの力はなく(それでよい)、ぼくらはだんだん映像にうんざりしはじめてきている(それもよい)。そう思ったので、映像はなるべく少なめにし、映像のコンテクストとなるものを多めにした古典的なアーカイヴ・インスタレーションをこしらえた。その「おまけ」程度に映像のあるインスタレーションを口実に、ぼくらが本当にやろうとしたのは、映像には映らない「クラフターたちのエコノミー」や、まだ・ここにしかない「もうひとつの可能なストリート」の解放感や居心地を展示し、予示することだった。展示するのは展開したいからで、予示するのはそれをいつか現実のものにし、コモンとして共有したいから。
「クラフティヴィスト」たちの持続可能なエコノミーはこれからもつづくが、
「ストリート」は、あ・と・一・週・間・で・消・え・る・・・
世界にひとつの、この場所は、「映像」のように、
いつでも・どこでも、再生できない。
早送りも、巻き戻しも、予約録画も、できない。
たぶん、もう、再生できない。
でも、「とりもどすこと」ならできる。