「今日の夜から明日の朝にかけてが、寒さのピークです」とラジオの天気予報がそう云ってた。それがもし本当なら、いまがちょうどそのピークであり、それがもし本当でなくても、十分すぎるくらいさむい。まるで季節の関節がはずれてしまったみたいにさむい(←意味不明)。しかも昨晩は銭湯に行きそびれてしまったので、頭のてっぺんから足の先までひえきっていて、どうにも眠れない。家のなかでも吐く息は白く、手がかじかみ、さむさと寝つきのわるさで、だんだんと気がめいってくるのがわかったので、寝るのをあきらめ、ありったけの上着を着こんで、外を歩いてみることにした。家のなかでじっとさむさをこらえているよりも、歩いて体を動かしてる方がよっぽどいいと思ったからだ。実際、おもいきって外にでてみたら、気分がよかった。それに、外を歩きまわって帰ってくれば、相対的に、家のなかが暖かく感じられるはずだという相対主義者的な考えもあった。つまり、いま自分の目の前に、動かしがたい現実としてある、このさむさを、外気のさむさによって相対化し、だしぬいてやろうと思ったわけである。首がまわらないくらいたくさん重ね着をして出たので、思ったほど寒くもなく、「冬の惑星」を探査する宇宙飛行士みたいな感じで、満月の光に照らされながら、よたよたと一時間くらい近所を散歩した。散歩をしながら、今から20年以上前に、大学の哲学の講義で聞いたフランシス・ベーコンの話を思い出した。エリザベス朝時代、ベーコンは食肉を冷凍保存することが可能なことに気がつき、ある雪の積もった日に、街の往来でそのことを証明する実験をやっていてカゼをひき、それがもとで死んだという。その講義ではたしか、観察と実験にもとづく知識を重視した経験論者ベーコンらしい死に方だと、そう聞いた気がする。さむさを相対化する相対主義の実験でカゼをひいては元も子もないので、てきとうなところで散歩をきりあげ家に帰った。もちろん実験してみるまでもなく、家のなかは相対的にあったかかった。理屈では分かっていたことだが、実感してみたかったのだ。もうすぐ夜があける。ピークは超えた。さて、寝よう。