はじめに、ふた、ありき
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▼「公園のあな/宮下霊園での葬儀」(2010年3月28日 東京・渋谷宮下霊園) (※3分31秒目あたりから埋葬と追悼のダンスがはじまります) 「原っぱが、子供たちにとって、日常的な絶好の遊び場だったことは、とても意義深いことだ。子供たちは、本能的に、原っぱを好んだ。それは、野球をしに行く場所ではなかった。ドッヂボールをしに行く場所でもなかった。なにかの目的をもって行く場所ではなく、ともかくそこへ行って、それからなにをして遊ぶかを決められる特別な場所だった。原っぱは、そのままで楽しいのではない。そこでは、毎日のように新しい遊び方が開発されていた。風邪をひいて、二、三日行けなかったりすると、もうみんなが遊んでいるルールがわからなくなってしまった。子供たちは、いくらでも、原っぱを使った新しい遊びをそこから引き出すことができた。原っぱの楽しみは、その場所での遊び方を発明する楽しみであり、そこで今日何が起きることになるのかが、あらかじめわからないことの楽しみだった。それが、人問の空問に対するかかわり方の自由ということの意味だ。 この自由は、別の意味で同じくらい楽しかった「遊園地」と対極にある。遊園地は演出されている。どういう楽しさを子供が得られるか、それが最初に決められ、そこから逆算してつくられている。それもまたとても楽しいことに違いないけれど、そこにはかかわり方の白由がきわめて少ない。ジェットコースターには、ジェットコースターとしての遊び方以外が許されていない。(...) 一見、自由に思えても、その自由は見えない濫のなかの自由だ。 ちょっと雑な気がするけれど、建築は、「遊園地」と「原っぱ」の二種類のジャンルに分類できるのではないか、と思う。あらかじめそこで行われることがわかっている建築(「遊園地」)と、そこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」)の二種類である。(...) ぼくがこの分類(あるいは極)にもう少しこだわりたいのは、現在において、「原っぱ」が失われつつあるからだ。」(青木淳) ナイキ社がつくろうとしているのは、「遊園地」のような公園です。 もうこれ以上、「遊園地」のような公園は、いらないのです。 わたしたちは、渋谷のまちにのこった、最後の「原っぱ」としての 宮下公園をまもりたいのです。ナイキ社はそれを葬ろうとしています。 この映像にはすでに葬られ、忘れら去られてきた「原っぱ」たちが、 亡霊のように映りこんでいます。わたしたちがまもりたいのは 「原っぱ」なのです。「そこで今日何が起きることになるのかが あらかじめわからないことの楽しみ」をまもるために。 檻の中にとじこめることのできない自由をまもるために。 その楽しみと自由を、こどもたちや多くの人たちと共有するために。 「私たちはいまどんな記憶を回復したいと思っているのか。 私には未来はこの思いからはじまるという気がしている。」(内山節) ▼「宮下公園アーティスト・イン・レジデンス」(※2010年4月5日、現在進行中) http://airmiyashitapark.info/wordpress/
by illcommonz
| 2010-04-05 20:55
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