ナイキ社に告ぐ、スポーツ・メーカーなら、スポーツ・メーカーらしく、そのブランド・イメージにかけて、正々堂々とたたかいたまえ。工事をはじめるときは、くれぐれも不意打ちなどせず、24時間前までにちゃんと連絡するように。それが正々堂々ということだ。
はじめに叫びがある。
わたしたちは叫ぶ。
はじめにあるのが言葉ではなく、
叫びであることは忘れられがちです。
資本主義によって人間の生活が引き裂かれる事態に直面したとき、
口をついて出てくるのは、「NO!」という悲しみの叫び、
恐怖の叫び、怒りの叫び、拒絶の叫びです。
しかし、その怒りを表現しようとすると、
私たちはたくさんの非常にもっともらしい反論に出くわします。
わたしたちをみて、なぜ叫ぶのか、とたずねてくるのです。
「君たちがそんなに否定的になるのは歳のせいじゃないのか?」
「世界の複雑さが分かってないんじゃないか?」
「根本的な変革を実現することが現実には
難しいことが分かってないんじゃないか?」
叫びがまったく否定されるわけではありませんが、
しかし、叫びからあらゆる正当性が奪われてしまうのです。
自分自身の感情をさしはさんではいけないと教えられます。
思考の構造全体がわたしたちを武装解除させるのです。
しかし、はじめにわたしたちをあれほど怒りに駆り立てたものは
なにひとつ消え去ったわけではありません。
世界の悲惨は続いています。
つまり、子供のように叫ぶこと、あらゆる構造的な説明をふりきった
叫びをあげることが必要なのです。
「精神科医が何といおうが、かまわない」
「私たちの主体性が社会的につくられたものであろうが、かまわない」
「これはわたしたちの叫びなんだ、私たちの痛みなんだ、私たちの涙なんだ」
「わたしたちは自分の怒りを現実のなかで薄めてしまおうとは思わない。
むしろ現実のほうが叫びに道をゆずるべきだ。」
「私たちを、子どもや若造みたいだといいたければ、そういえばいい」
「私たちは叫ぶ。ここにこそ私たちの出発点があるのだ」
そういわなければならないのです。
(ジョン・ホロウェイ)