はじめに、ふた、ありき
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あいかわらず世の中は「環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境環境」といってる。イーノとかKLFとかエイフェックス・ツインの「アンビエント・ミュージック(=環境音楽)」は好きだけど、「環境」といわれても、いったいそれがどこのなんのことを指してるのかまるでピンとこない。「環境」と自分との具体的なつながりがみえず、なにをどう考えればよいのからわからず、あたまがわるくなったような気がする。ユクスキュルは、一般に「環境(=Umgebung)」とよばれてるもののうち、実はそのほんの一部だけが、ある主体(人間とか動物とか植物)の生存と活動にとって、意味のあるつながりを持つにすぎないのであって、「環境」のなかにはそれぞれの主体ごとに異なる多様な「環境世界(=Umwelt)」が複数存在しているとし、「環境」と「環境世界」を区別してみせた。前者を「大文字で単数の環境」だとすれば、後者は「小文字で複数の環境」といってよく、自分に興味があるとすれば、後者の方である。一方、マクロ・ビオティックによると「自分が生まれ育った環境で穫れる食べものがその人の身体と健康にとって一番よい」らしい。この理屈でいけば、自分が生まれ育った土地の地勢や風景が、その人の精神とその安定にとって一番よいことになる。ちょうどお盆の帰省シーズンでもあるので、自分が生まれ育った「環境世界」をみてみることにした。 下の画像は、生まれてから20代のはじめまで過ごした福岡の実家の半径約1キロメートルの航空写真を、惑星のように加工してみたものである。 「福岡市から北東約15km、宗像市から南西約15kmの場所に位置する。西は玄界灘に面し、松原が広がる砂丘地帯である。北部と南部には丘陵地があり、それぞれ福津市、新宮町に接している。東部には三郡山地から延びる犬鳴山地がある。町中心部には、その山地から大根川(花鶴)が流れる。大根川と隣に流れる中川の堆積・扇状地で小平地を形成している。玄海国定公園の一角を担う花鶴ヶ浜(新宮海岸)や宮若市との町境にある西山など自然にも恵まれている。」(「古賀市」Wikipediaより) 家から歩いて10分くらいのところに砂浜があり、松林があり、海岸があり、海に注ぎこむ河がある。その河に沿ってゆくと、小さいながらも里山や原っぱがある。家のまわりの商店街は、2000年の大店法廃止にとどめをさされ、今では見るも無残なシャッター商店街となり、街の様子はすっかり変わってしまったが、この「環境世界」は今もあまり変わってない。子どものころは、ここが文字通り、自分が生きてる世界だった。この約1キロメートルの世界のなかで遊んで育った。海岸でトランペットやドラムの練習をし、夏には海水浴やキャンプをした。海辺で水死体をみたり、潮干狩りや地引網をした。松林につくった秘密基地で生き埋めになったこともある(死ぬかと思った)。山では山芋をほったり、ミカンをもいだりした。家の庭にあった砂場の砂は、砂浜から勝手にとってきたもので、海岸では誰からも文句を云われず、思う存分、楽器の練習や火遊びができた。この「環境世界」がよかったのかわるかったか、恵まれていたのかそうでなかったのかはわからないが、こういう調査があるらしい。 ▼「外で活発に遊んだ子ほど学習熱心に」 「子供時代に外で活発に遊んだ人ほど、本を読む割合や大学進学率が高い。国立青少年教育振興機構は24日、こんな調査結果を公表した。調査に携わった千葉大の明石要一教授(教育社会学)は「子供が外で遊ぶことで、探求心や知的好奇心を刺激し、学習意欲も向上させるのでは」としている。調査は昨年末、全国の20~60歳代の男女5000人と、小中高生1万1000人を対象に実施。「川や海で泳いだ」「友達と相撲をした」など30項目をもとに、外遊びの体験豊かなグループとそうでないグループとに分けた。それによると、「体験豊か」という大人のグループは、1か月に本を1冊以上読む人の割合が71%にのぼり、少ないグループ(47%)より24ポイント上回っていた。最終学歴が大学以上(50%)という人も「少ない」グループより5ポイント多かった。ただ、同じ調査では、外遊びのうち、海や川で遊んだ経験のある人が60歳以上で半数以上にのぼるのに対し、今の中高生は4割に満たない実態も浮かんだ。明石教授は「学校や家庭は、子供が外で遊ぶ機会をもっと増やす努力をすべきだ」と指摘している。」(読売新聞 2010年5月25日) 実はこの調査結果については半信半疑なところがあって、同じ「外遊び」でも、本当にドキドキするような「探求心」や、未知のものへの「知的好奇心」を刺激されたのは、海や川での体験よりもむしろ、廃墟になった病院や倒産して放置されたボーリング場、閉鎖された工場跡やゴミ置き場のような「わるい場所」でのイルビエントな体験だったような気がする。そして「自然」というよりもむしろ「フリーゾーン」としての海や山や河が身近にあったことが、フリーゾーンのすくない東京に居心地のわるさや窮屈さを感じる、いまのものの考え方や感じ方に影響を与えているような気がしている。※ [追記] イルビエントな探求心や知的好奇心に駆られて1989年から1996年までフィールドワークをしたケニアの田舎の「環境世界」はこんなだった。圧倒的にフリーゾーンが多い。 そして、いま住んでる立川の「環境世界」はこうで、フリーゾーンが足りない。 [※参考] 「いま、怖れられ憎まれてるのは、もしかすると公園という場そのものじゃないかという気がするんだ。あの禁止の多さがなによりの証拠で、公園という場所自体が恐怖の対象になっているんじゃないかと思った。怖れてるからこそ、あんなに禁止が多いんだと思った。云うまでもないことだけど、公園は人が勝手にただで休憩し、余暇を楽しみ、自由に何かをする場所だ。だから、いってみれば公園は、資本主義のテリトリーとそのコードからはみだしたフリーゾーンで、資本や通貨の流れから外れた残余の場所だ。「帝国」の中に最後に残った野性の地だ。「帝国」の生活に塗れきってしまった僕らは、その最後の希望の地かもしれない公園という場の力を読み違えてしまって、それを怖れているんじゃないだろうか。これは微妙な感覚なんだけど、たとえば僕らは、ただでモノを手に入れることや、ただでモノを手にいれることに妙な居心地の悪さを感じるし、休憩や娯楽ですら、資本に管理された価格のあるものの方を求めるようになっている。あらゆるものにお金を払うことに慣れすぎてしまっていて、消費者根性とでも呼びたくなるような卑しさを身につけてしまっている。無償のモノのなかで生きる感覚や想像力をなくしてしまっている。そんな僕らは、ライセンスのないとりひきや、パッケージのないたべもの、レシートのない品物や、ビジネスのないつきあい、コピーライトのない歌や、イズムのない思想、マーケットのない努力や、プライスのないただのサービス、そういう資本主義生活のやりくり(エコノミー)から外れたモノや事件に囲まれた「野性の暮し」というものを想像することすらできなくなってしまっている。だから公園を怖れているんじゃないだろうか。」(イルコモンズ「さよなら落書きなき世界~街をノックする者を恐れているのは誰か?」「現代思想 特集=グラフィティ/マルチチュードの表現」2003年10月号より)
by illcommonz
| 2010-08-16 02:20
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