
「基本、世のなか、貧しいほうが、
まちがいないですね。」
小沢昭一「貧しいほうが間違いない」
(「図書新聞」2011年新年号より)
「図書新聞」のインタヴューのおしまいに、それまでの話の流れからすると、やや唐突とも思える感じで、小沢昭一が口にしたことば。前ふりもなく、論証もなく、もちろん、統計データなどもなく、ふと小沢の口をついて出てきたことば。だからこそ何かゆるぎないものを感じる。それは決してノスタルジーでもなければ、もうろくでもなく、80年有余年、この世を生き、修羅の巷をずっと見つづけてきた、その経験と知見に裏打ちされたことば。このことばをネガティヴにとるか、ポジティヴにとるか、こういうとき迷わず後者をとるのが、イルコモンズのイルコモンズ的こころ。ヴァンダナ・シヴァがどこかで書いてたように、資本主義の搾取や、無能な政府、戦争や飢餓がうみだす絶対的「貧困」と、自給自足社会の相対的「貧しさ」(生産が少なく消費も少ない)はちがう。消費量と幸福量は比例しないし、国の経済成長と人の生きるよろこびは同じものではない。年間の自殺者数が13年連続で3万人を越えてもなお、国の成長戦略や経済発展を口にする政治家たちがいるが、それでいったいどれだけの人間が幸せになったというのだろうか。どうせまた、ほんの一握りの人間が金持ちになるだけで、いずれまたこの30年間と同じことがくりかえされるだけだ。新年にあたって、国の成長戦略や経済発展への道を得意げに説く政治家や企業家がいたら、無視したほうがいい。気の毒なことに、そういう連中はそれ以外のことが考えられないのだ。それ以外の価値観や生き方を思いつくすらできないのだ。それこそ貧困であり、これを貧困といわずして、なんといえばいいのか。GDPなどしょせん「みせかけの豊かさ」にすぎず、人間とその暮しの豊かさは、それとはまったく別のところにある。「貧困」をうみだすものとは断固たたかうが、「貧しさ」とはおおらかにつきあいたい、今年も来年も今日も明日も。