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![]() 「なぜ、誰のために、われわれは人びとのあいだに、カメラをもちこむのだろうか。不思議なことに、この問いに対する私の答えは常に同じである―「私のために」。もちろん科学的理由(急速に変化しつつある文化や、消滅してしまうおそれのある文化の、視聴覚資料館をつくること)や、政治的理由(耐えがたい情況に対する反乱に加わる)や、美学的理由(記録しなければ消えてしまう美しい景色、顔、身振りなどの発見)により、その使用を正当化することは常に可能であろう。しかし実際には、われわれは、突然、フィルムを撮る必要が生じたり、あるいは、まったく同じような情況で撮影してはならないという確信があるから、フィルムを制作しているのである。」(ジャン・ルーシュ「カメラと人間」) ▼大阪大学グローバルCOEプログラム「コンフリクトの人文学国際研究教育拠点」 シンポジウム「コンフリクトをみる・きく―方法論再考」 [日時] 2011年1月22日(土) 13:00-17:00 [場所] 大阪大学人間科学研究科ユメンヌ・ホール 「映像人類学は科学なのかアートなのか、撮影は三脚を用いるべきか、手持ちに徹するべきか等、方法論に関する同じ問いが繰り返されてきた。しかし、映像作成をする側もしない側も、そもそも人類学的報告において映像を用いるのはなぜか、という根本的な問いは避けて通りがちである。それは実のところ、ルーシュの言葉が示すように、さまざまな正当化の「理由」よりも「確信」という怪しげな何かによって支えられているのだ。だとしたら、人類学的映像について語るとき、必要なのは言葉かヴィジュアルか、といった表象媒体に関する議論ではなく、それが撮られた/作成された状況と、その場にいる人々の関係性なのではないか。しかも、その関係性に、機械が不可欠なアクターとして関わっているということをいまいちど考察に組み入れるべきだろう。再びルーシュの挑発的な言葉を引用し、当日の議論につなげたい。 「私にとって唯一の撮影方法は、カメラをもって歩き回り、最も効果的な場所に持っていって、写されている人と同じような生き生きとしたカメラの動きを即座につくることである。もはや自分自身ではなく、「エレクトロニックな耳」をもった「機械的な目」となる。フィルム制作者のこの奇妙な変化の状態を、魅いられたような現象から類推して「シネ・トランス」と名づけている。」(ジャン・ルーシュ) [参加者] 酒井朋子(本GCOE特任助教)報告者 田沼幸子(本GCOE特任研究員)報告者 市岡康子(元立命館アジア太平洋大学教授、元日本テレビ映像ディレクター)報告者 古川岳志(本GCOE特任助教)司会 中川理(大阪大学GLOCOL専任講師)コメンテーター 小田マサノリ(東京外国語大学AA研特任研究員)コメンテーター 村尾静二(国立民族学博物館助教)コメンテーター 冨山一郎(本GCOE事業担当推進者) 久保田美生(本GCOE特任助教) --------------------------------------------------- [追記] Q:電気の耳を持った機械の眼になることは可能か? A:可能だが、そうなりたいとはおもわない。
by illcommonz
| 2011-01-21 20:59
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