この写真の男性が、イスラム教徒なのかキリスト教徒なのかは分からないが、もし後者だとしたらと思って、調べてみたら、「ヨハネの福音書」にこういう一節があった。
弟子たちは彼に言った。
「ラビよ、ユダヤ人があなたを石打ちにしようとしたばかりなのに、
あなたはまたそこへ行かれるのですか?」
イエスは答えられた。
「昼は十二時間あるではないか? だれでも昼間に歩けば、
つまずくことはない。この世の光を見るからである」
(「ヨハネによる福音書」 第十一章)
エジプトの人たちがくりかえし何度も何度も何度も何度も何度も云うように、エジプト革命はいわゆる「宗教革命で」ない。しかしこういう写真をみていると、宗派を超越した別次元の宗教性を感じてしまう。
どこかでベンヤミンが「モダン文化の中心部に初源的なものが回帰してくることがある」というようなことを書いてたが、エジプト革命の中心地に、いま何かが回帰してきているのかもしれない。もとをたどれば、イスラム教徒もキリスト教徒も共に「経典の民」...しかしそうした「宗教的」な光景に目をうばわれるあまり、見失ってならないのは広場や路上やネットでの非宗教的な
「世俗のつながり」であり、いま回帰してきているのは、独裁体制のなかでバラバラにされてきた人たち同士の「世俗的」な信頼だと思う。
なんだか、こたつをかこんでるみたいにみえる。
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[参考] 「これまでのエジプトの政治の選択肢は、ムバラク政権かムスリム同胞団かとされてきた。国民にも、そして米国にも、支持できる真ん中には組織はなかった。その真ん中にいた孤独な群集がネットでつながり孤独でなくなった。ネットを使える世代がまず動きだし、ほかの人々がついてきた。新しい展開だ。新しい現象だ。メディアを政府が独占した時代では考えられなかった。この運動をアルジャジーラなどの衛星テレビが24時間中継していることも大きい。」(高橋和夫の国際政治ブログ
「ネットが孤独な群集をつなげた」2011年2月6日)
[追記] まだいま調べてるところで、未確認なのだが、「イラクのアルカイダがエジプト人に世俗ナショナリズムなんて止めろというような声明をサイトに出した」というAFPの報道があるらしい(
このツイートから)。これが本当なら、だからこそ「世俗的なつながり」をキープしなければならない。