「ひとは、エジプトで起こっているできごとの「奇跡的な」本性に注目せざるをえない。ほとんどだれもが予測しなかったことが起こったのだ。専門家らの見解に反して、決起が単に社会的な原因に対する結果ではなく、まるで不可思議な働きが介在して起きたかのように、何かが起こったのである。私たちはその不可思議な働きを、プラトンにならって、自由、正義、そして尊厳という永遠のイデアと呼ぶことができよう。」(スラヴォイ・ジジェク「エジプトにとって、これはタハリール広場の奇跡だ」)
ジジェクのこの文章をよんだ後に、このムービーをみると、あるヴィジョンが目に浮かんでくる。それは、どの時代のどの地域にもいるあの陰気な現実主義者たちが、ことあるごとに「理想はそうかもしれないが、しかし現実には…」というあの呪いの文句で封じこめ続けてきた人類の理想やイデアが、二十一世紀のエジプトでその封印を解かれ、魔法のランプの中から残らず飛び出してくるというヴィジョンである。自由、正義、尊厳、平等、ほんとうの民主主義…。もちろん動かしがたい「現実」は実在するが、同時に「革命」も実在する。たしかに現実はそこにあるが、その現実は変えることができる。現実を変えるのが革命であり、革命とは現実世界の脱構築なのだ。かつてデリダは「法は脱構築できるが、正義は脱構築できない」と語ったが、それと同じで、現実は脱構築できるが、人類の理想は脱構築できない。理想は単に目の前に現前してないだけで、それは到来するものとして、つねに待機している。だから現実主義者たちが何と云おうが、「理想よ一歩前に、現実は後からついてこい」でよいのだと、改めていまそう思っている。