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▼リドリー・スコット「ブレードランナー」予告篇 「福島原発事故の被害がいよいよ身近なものとなってきた。放射能汚染のかなたには、酸性雨や放射性物質に汚染され、アンドロイドが跋扈する『ブレードランナー』のロサンゼルス、無人の廃墟と化した『A.I.』のマンハッタン、ロボットだけが孤独に働いている『WALL・E』のアメリカがほの見える。選択は、こうした地平へ破滅的に進むか、あるいは、思い切って鴨長明的な「方丈」のライフスタイルに転換するかだが、むろん、事はそう単純ではなく、進行しつるある流れは、原発を温存させたまま「新エネルギー」を模索するといった日和見主義的な方向だ。その過程で、原発推進派の懺悔や「理論的」居直り、「脱原発」派のハッピーな新テクノロジー/エネルギー論が立ち現れつるある。いずれの場合も、原発が立脚するテクノロジーが、「人間」によってコントロール可能だという前提に立っている点ではかわりがない。 ▼「幸せの経済学」予告篇 しかしながら、いまのテクノロジーを規定している「西欧近代のテクノロジー」が形をなしはじめたとき、それが「人間性」をこえてしまうことはすでのそのシナリオのなかに書かれていた。テクノロジーは、当初、身体の延長線上にあったとしても、すぐにそれは、身体を持った「人間」のレベルをこえてしまった。そうして、このテクノロジーは、「人間」と世界を分子や原子のレベルに分解し、再統合するという方向をエスカレートさせていく。この力のもとでは、身体を持った「人間」や有機的な「自然」は解体せざるをえないわけだから、原子力や遺伝子操作やナノテクノロジーの「事故」は、このテクノロジーの側から見れば、全く事故ではないのである。 ▼マイケル・マドセン「10万年後の世界」予告編 いまわれわれは、原子力という「人間性をこえた」技術を極めて具体的な形で目の当たりにしている。この技術は、もともと「人間性」を越えているのだから、それが「人間」をないがしろにしても不思議ではない。「超人」ならば、この技術につきあえるだろう。現に福島原発の放射能汚染の廃墟のなかで、おもちゃの「超人」つまりは電気仕掛のロボットだけが生き生きと動き回っている。人間は死ぬが、ロボットやアンドロイドは生きることができる。放射能が充満する世界は、アンドロイドとロボットのための世界である。だから、この技術が加速する果てには、たかだかロボットやアンドロイドしかいない「死」の世界がある。 ▼東京電力「福島第一原発パックボット」 いまのテクノロジーがロボットやアンドロイドの製造に傾ける情熱には、「人間」をこえるシステムを造りたいという願望が渦巻いている。それは、同時に、「人間」をご用済みにしたいという「終末論」的な願望でもある。いまのテクノロジーを規定している西欧近代科学にはキリスト教的な終末論が潜む。それは、この世の終りの先を期待することであり、「人間」のいない世界を密かに願望することである。 ▼スタンリー・キューブリック「博士の異常な愛情」 他方で、テクノロジーと「人間」との出会いの失敗は、ある種エロティックなまでの「心中」的情念を生む。スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』の最終場面(核爆発が起こり、ヴェラ・リンの「また会いましょう」が流れる)は、まさにそうした危機的出会いと「心中」的情念との優れた表現である。まともな出会いが不可能なもの、自分の身体の消滅を賭けなければ果たせない出会い――「心中」的情念はこの不可能性のなかで身を悶える。 いま福島原発は、われわれに「心中」を強いている。いずれこの「心中」を審美化し、われわれが素直にこのトレンドに従う方策が練られるだろう。しかし、わたしは、そんな安っぽい「死の美学」の臭気を浴びるのはごめんこうむりたい。テクノロジーとの「心中」はごめんだ。いまのテクノロジーは、ロボットやアンドロイドは造れても、「超人」を生み出すことはできない。ロボットやアンドロイドを「超人」と呼ぶならば、「人間」の方は退陣しなければならない。 ▼ディズニー社制作「我らの友、原子力」 ![]() ▼イルコモンズ編「我らのホラー、原子力」 では、なぜ「人間」を「こえる」がよしとされるのか? なぜ「人間」は「人間」を「こえ」なければならないのか? ありあわせの「身体」にとどまることはできないのか?ふたたび「身体」の問題が回帰してきた。(粉川哲夫「テクノロジーとの「心中」」より抜粋) [参考] ▼中沢新一「日本の大転換」「すばる」2011年6月号+7月号
by illcommonz
| 2011-07-06 03:05
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