「「野生の思考」のなかでレヴィ=ストロースは、
ブリコラージュについて説明している。ブリコルールとは「ありあわせの手段」つまり、身のまわりにあってすぐに使えるような、もともとあった道具を活用する者のことであり、それらの道具は、それを使う加工作業のためにわざわざ考案されたものではなく、必要に応じて変更されたり、出所やかたちが異なっていても一緒にされたりするものである。したがって、多少まとまっていたりばらばらになってしまった遺産から概念を借りてくることをブリコラージュ的というのなら、
言語活動はすべてブリコラージュだといわなければならない。レヴィ=ストロースがブリコルールに対比させているエンジニアの方は、自分の言語を、構文も語彙もすべてひっくるめて、その全体を構成しなければならなくなる。その意味では、エンジニアというのはひとつの神話なのである。つまり、自分の言語活動の絶対的な源として「他から何も借りずに」完全に言語を構成するような主体は、言語の創造者であり、言語そのものである。ブリコラージュとはまったく無縁のエンジニアという発想は、したがって、神学的なもので、エンジニアというものは、ブリコルールがうみだした神話であることは確実である。言語活動すべてブリコラージュ的な作業をおこなわざる得ないということをみとめ、学者やエンジニアもまたブリコルールであることをみとめるなら、ブリコラージュという発想そのものがおびやかされ、それに意味を与えていた区別は消えてしまうだろう。」(ジャック・デリダ「人文科学の言語表現における構造と記号とゲーム」
物には命が宿っている。さまざまな出来事を観察し、あらゆる人の精神状態や
緊張感や不安感を感じ取り、すべてを引き受け、ある状況下で、それを再発信する。
私は隠れていた命を作品に注ぎ込むのだ。(ヤン・シュヴァンクマイエル)