昨日の「デモクラシーナウ!」のハイライト・シークエンス。12月2日発売の「週刊金曜日」にちょうど同じようなはなしを書いたので、このくだりが特に印象に残った。ちなみに、ウェス・ジャクソンはこうも云っている。
「あなたのライフワークがあなたが生きているあいだに達成させるものなら、
あなたは十分に大きなことを考えてはいません。」
この場合の「大きさ」とはスケールのことではなく、サステイナビリティ=継続可能性のことである。あと、これもよかった。
社会変革は、いつも思いがけないところからはじまるだけでなく、それはまた、思いがけないときにはじまる。まるで「時間の関節がはずれている」ようなときにそれはおきる。だからこそ、勇気をもって続けなければならない。たとえ、自分がそれを目にすることができないとしても、成果をもとめず、みかえりをもとめず、続けなければならない。それが「社会(のための)運動」だと思う。新自由主義者にはとうてい理解できないと思うが、それが「贈与」の経済である。これは「ただちに健康に影響はない」という考えの対極にあるもので、そこで想定しているのは自分(たちだけ)の健康のことであって、社会全体の健康のことではない。逆にそこで想定されてないのは、精神やこころへの影響である。よくいわれる「七代先のことまで考えてものごとを決める」というのは、自分の子孫とその一族のことではなく、その子孫たちが暮す社会全体のことを考えることだと思う。七代先の社会まで、歌いつがれ、愛されつづけるメロディをつくることができたら、その人は幸いである。七代先の社会まで、読みつがれ、愛されつづける詩をつくることができたら、その人は幸いである。つまり、生まれてきた意味があるというものだ。反対に、七代先の社会まで呪われるような放射能をつくった、この時代の人間の生まれてきた意味を考えると、気が滅入ってくる。「うまれてきてすみません」と思いながら生きたくはない。だから原発をとめたいし、とめなくてはならない。「10万年の愚行」の時代の人間になりたくない。