はじめに、ふた、ありき
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[教材] ・ウゴ・グレゴレッティ「にわとり」 ・ギー・ドゥボール「スペクタクルの社会」 ・アドバスターズ「生産の意義/人生の意義」 ・吉野源三郎「君たちはどう生きるか」 ・岡崎京子「PINK」 ・宮崎駿「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」 ・小沢健二「うさぎ」 【パンとサーカス】 「パンとサーカス(ラテン語: panem et circenses)は、詩人ユウェナリスが古代ローマ社会の世相を揶揄して詩篇中で使用した表現。権力者から無償で与えられる「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」によって、ローマ市民が政治的盲目に置かれていることを指摘した。「パンと見世物」ともいう。ガス抜きや愚民政策の例えとしてしばしば用いられている言葉である。(ウィキペディア) 【スペクタクルの社会】 「シチュアシオニストは、現代の「スペクタクル」についてくりかえし論じてきた。このスペクタクルには、広告看板から、アート、サッカー、ラジオ、テレビまであらゆるものががふくまれる。かつては誰もが自分で直接体験してきたことが、いまは別の誰かによるショーになってしまっている。生きた体験は、メディアがつくるイベントやあらかじめパッケージ化された経験にとってかわられてしまっている。シチュアシオニストは「人さらい」という言葉をつかい、スペクタクルが僕らの「リアルな生」をどこかに連れ去ってしまっているのだという。」(カレ・ラスン「カルチャージャム」) 【人類はゾンビになってしまった】 「私たちの周囲にはかつてないほど情報があふれ、そこから逃れることはできない。デスクの上にも、ポケットの中にも、カフェのテーブルにもコン ピュータがある今、情報はまるで空気に乗って私たちの周りを漂っているようだ。それなのに、自分がどんどんばかになっている気がしてならない。実際、平均すれば、われわれは上の世代より無知なのではないか。アップルストアに並ぶ長蛇の列や、歩きながら携帯電話をのぞきこむ人々。人類はゾンビになってしまった。「いや、非常に忙しいゾンビだ」という弁明が聞こえてきそうだ。メールを読み、ツイッターでつぶやきながら、他人のツイートに返信する。アプリをダウンロードし、写真をアップロードする。フェースブックを更新し、世界中が自分のことを気にしているような気になって、好きなものや嫌いなものを世界に向けて発信する。では、私たちがしていないことは?それは「考える」こと。情報を処理してはいるが、考えてはいない。2つは別物だ。要はデジタルツールを触りながら、ダラダラしているだけ。リンクをクリックしては、自己顕示欲の強い愚か者や評論家、広報やマーケティングの担当者らが垂れ流す無意味なゴミの激 流をかき分けている。」(ダニエル・ライオンズ「iPad であなたはもっと馬鹿になる/デジタル機器やウェブに振り回されて人間は「忙しいソンビ」になった」) 【消費専門家の生活】 「ところで、君自身はどうだろう。君自身は何をつくり出しているだろう。世の中からいろいろなものを受取ってはいるが、逆に世の中に何を与えているかしら。改めて考えるまでもなく、君は使う一方で、まだなんにも作り出してはいない。毎日二度の食事、お菓子、勉強に使う鉛筆、インキ、ペン、紙類、まだ中学生の君だけれど、毎日、ずいぶんたくさんのものを消費して生きている。着物や、靴や、机などの道具、住んでいる家なども、やがては使えなくなるのだから、やはり少しずつなし崩しに消費しているわけだ。して見れば、君の生活というものは、消費専門家の生活といっていいね。無論、誰だって食べたり着たりせずに生きちゃあいられないんだから、まるきり消費しないで生産ばかりしているなんて人はない。また、元来ものを生産するというのは、結局それを有用に消費するためなんだから、消費するのが悪いなどということはない。しかし、自分が消費するものよりも、もっと多くのものを生産して世の中に送り出している人と、何も生産しないで、ただ消費ばかりしている人間と、どっちが立派な人問か、どっちが大切な人間か、こう尋ねて見たら、それは問題にならないじゃあないか。生み出してくれる人がなかったら、それを味わったり、楽しんだりして消費することは出来やしない。生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ。これは、何も、食物とか衣服とかという品物ばかりのことではない。学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出してゆく人は、それを受取る人々より、はるかに肝心な人なんだ。だから、君は、生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後、決して見落とさないようにしてゆきたまえ。」(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」) 【本当に大切なものは、i ナントカじゃ手に入らないんです】 「あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。そのうちに電車の中で、その妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだらけになった時も、ウンザリして来ました。あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男たちへの感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具として、i ナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。誰でも手に入るものは、たいしたものじゃないという事なんです。本当に大切なものは、i ナントカじゃ手に入らないんです。一刻も早く、i ナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。」(宮崎駿「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」) 【愛ではなく、憎しみを持つように】 「灰色のつくり出す世界では、「もう古いの計画」がいつも進行していました。「あれはもう古い」と思わせて、人びとに次々と新しい品物を買わせる計画でした。新しい品物が買われると、古い品物はごみになります。「もう古いの計画」とは、灰色の手下の一人の言葉を借りれば「どんどんごみをつくりだす計画」でした。「もう古いの計画」は、広告やテレヴィジョンに出てくる、やせた若い女の子たちにも当てはめられました。「あの女の子はもう古い。もう若くない」「あの女の子、ばばあになってるのに、まだねばってる」。卑劣な男の人たちは、灰色の思惑どおり、女の人たちをごみにしようとしました。灰色がつくり出すのは、「もう古いの計画」のために、「やせた若い女の子たち」が、ちり紙のように、毎年、捨てられる世界でした。「いつも新しい品物を買いなさい。いつも新しい、より若い女の子とに憧れなさい。」灰色がつくりだす世界は、そんな命令であふれていました。「時々、「豊かな」国々の人びとが物を考えないのは、灰色がたくさんの品物と情報を与えて、人びとの暮らしを満足させてしまうからなんです。豊かな国々の、ぬるま湯につかったような生活がだめなんです」なんていう人がいる。けれど、よく見てみると、「豊かな」国々の人たちは、全然「満足」なんかしてないんだ。それは、考えてみれば、当たり前の話で、広告っていうものの目的は、人の心の中に「不満足」をつくりだすことにある。というのは、「満足」している人に、物を売りつけることはできない。人が目の前にある物に満足して、喜んで、愛して、受け入れようとしていたら、新しい物は売れない。たとえば、自分が持っている自動車に、喜びを持って、愛情を持って、ながく乗ろうとしている人は、新しい車を買わない」。「人が、自分が持っている物に、喜びではなく不満を持っていて、愛情ではなく憎しみを持って、受け入れるより放り出そうとしていると時、新しい物は売れる」 「人に満足を感じさせないこと。どんどん「不満足」をつくり出すこと。広告を見ていると「あなた、今のひげそりに満足ですか?」「あなた、今の家に本当に満足ですか?」「あなた、去年の服に満足ですか?」そんなメッセージが、脅迫状のように飛び込んでくる」。「実際には、物はながく使える。なおしたり、色を塗りかえたり、工夫をして、いつまでも使える。使っていると愛着が出てきて、ますますながく使いたくなる。けれでも、それは灰色にとっては都合が悪い」「人が満足ではなく、不満足を持つように。喜びではなく、退屈や、不満を感じるように。もっとはっきり言うと、愛ではなくて、憎しみを持つように。灰色が作り出す世界は、そんな世界だ」(小沢健二「うさぎ!」)
by illcommonz
| 2011-12-06 00:44
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