はじめに、ふた、ありき
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(教材) ・中沢新一「野生の科学とは何か」 ・マーク・ボイル「ぼくはお金を使わずに生きることにした」 ・ビル・マッキベン「人間の終焉」 ・マーク・フラウエンフェルダー「Made by Hand―ポンコツDIYで自分を取り戻す」 ・フランクリン・ロペス「END:CIV」 ・イルコモンズ「野生のコモンセンス」 ・松本哉「貧乏人大反乱:生きにくい世の中と楽しく闘う方法」 「「野生」という言葉、まずそこから始めよう。「野生の科学研究所」という名称は、フランス語にした場合、微妙な問題が発生する。その表現では「卑猥な科学」という意味になってしまうというのだ。英語の場合もほぼ同様、「野卑な科学」「下品な科学」であるから、この名前は考え直した方がいい、としきりに勧められる。が、言葉こそが現実に立ち向かう唯一の武器であるとすれば、このような時代にはそれにふさわしい程度に剥き出しにしなければならないのではないか。今の私たちの気持ちとしては、これ以上にふさわしい言葉はない。「卑猥な科学」「下品な科学」「野蛮な科学」そういう意味もすべて含めた、新しい人間についての学問を考える、そのための研究所にしたいと思う。私たちがめざす、いわば「野生型」の学問では、知性はつねに世界・自然と一緒に動いていく。たとえば狩猟民が森の中を動きながら動物に接近していくとき、彼らは動物をコントロールすることができない。野生型の学問もまた、対象と同調して深められていくのである。野生型の科学と、家畜型の科学を考えた場合、現在私たちが知っている自然科学は基本的に家畜型の科学ということになるだろう。野生型の学問はルネサンス以降、今に至る長い歴史の中でつねに虐げられてきた。それは未開人の考え方であるとか、前近代的な考え方であるとか、インディアンの考え方であるという烙印を押され、不当に低い価値付けしか与えられない。私たちは、科学というものをもっと豊かで、具体的で、誤解を恐れずに言えば、もっと卑猥なものにつくりかえていかなければいけない」(中沢新一) 「およそ学者にとって、いちばん安易な道は、自分の学問に一応完結した体系を与えるのに都合のいいように、学問の対象や目的を限定していく方法であろう。私は人生の行路半ばにして迷い込んだ文化人類学という学問になると、当初から、限定された境界や完結した体系などを至難とするほどに、茫漠とした対象領域と性格をもったものではないかと思う。こんなことをいうと、学会の一部から、「いや、それはお前が勝手にそう解釈したり、空想をひろげたりしているだけのことで、この学問には早くから民族学というような名前で限定された対象や目的ははっきりしているではないか。この学問的な伝統からはみ出して、任意に専門分野を拡大していったら、専門というものの純粋性も深さも失われて、単なるアマチュアの教養に堕してしまうばかりだ」という非難をうけることだろう。事実また、私のアカデミックライフは、このような非難にさらされながら、続けられてきたといってもよい。」(石田英一郎) 「国家とか国境で区切ってこないような、そういう学問をたてられないだろうか。さらにいえば、これまでの学の体系というのは多かれ少なかれ、強者の考え方、強い人たちの考え方を反映しています。先ほどから、女、子どもとかいう言葉、何回もでてまいりましたけれども、そういう風なことから言うとですね、オモテ学に対して、ウラ学というものを立てることができるのじゃないか。最近会った優れた日本史学者によると、この学問では、ケース付きのA版の書物を書かないと、学者として一人前ではないのだそうだ。これはずいぶんと固苦しい自己規定だなと思う。それに学者たちが紀要、研究誌に発表している文章になんと悪文が多いことか。これはほとんど完全に、民衆、読者を無視した態度だ。アカデミズムのありようがこのようなものであるのなら、私はますます反対の方向へ進みたくなる。私の思考の根底には、アカデミズムへの違和感がある。私は、民間学固有の方法など無いと思う。民間学とは、学問を中心とした、おそらく日本特有の、集団行動への批判である。それは思想や知的運動の態度であって、方法の問題ではない。方法の問題として立てると、またまた洗練や抽象の方向へ向かってしまって、せっかくの生きいきした生命力が失われてしまう。民間学は、いくらか野暮ったくあいまいさを残したレベルにとどまった方がよい。それがアカデミズムを批判する、かそけき方法である」(鶴見良行) 「伝統はわれわれいっぱん素人のものでなければなりません。 特殊な専門家の権威的なおせっかいをすっぱり切りすてるべきです。つまりモーレツに素人であることを決意した人間の手にとりかえさなければならないのです」(岡本太郎) 「ほぼすべての社会的地位のなかで、実験と発明がいちばん自由にできるのはアマチュアだ。人口に占めるアマチュアの割合は、その社会の自由を正確に測る尺度となる」(フリーマン・ダイソン) 「四泊五日の「なんとかフェスティヴァル2009」からもどってきたら、気のせいか、ものがよくみえ、耳がよくなってた。気のせいでなければ、あたまもすこしよくなった気がする。どうやら感覚がひらいたらしい。じっくりものをみたり、じっと耳をすましたり、しっかりものを考えるようになった。こどものころ、キャンプから帰ると、「なんだか、たくましくなって帰ってきたね」と、よくそう云われたもので、なるほどそれに似たところもあるが、すこしちがう気もする。おそらくそれは、日ごろ、聞きたくもない音楽や見たくもない広告、知りたくもないニュースや食べたくもないメニューであふれた、アシッドな資本主義の世界で、あたまを狂わさずにサヴァイヴしてゆくため、知らず知らずのうちにOFFにしていた感覚がオープンになり、リヴァイヴしたのだと思う。つまり「サヴァイヴ&アライヴ」の「なんとかフェスティヴァル」は、「リヴァイヴ」のフェスでもあったわけだが、それ以上にまずは「アライヴ」のフェスだったと思う。なにを「生きた」かといえば、もちろん「革命後の世界の暮らし」であり、「金もうけ連中の世話や餌食にならなくて済む生活」であり、「エコ=ECO=END CAPITALISM ORGANICALY=有機的に資本主義を終結させる)」な生活である。それは、朝起きてから朝寝るまで、ひっきりなしに誰かがドラムやギターを鳴らして いたり、昼間からなにもせずただぶらぶらしてたり、夜中に酔っぱらって地面で眠りこんでたりしても、まぁ「なんとか」なってゆく暮らしであり、「なんとか」なりそうにない場面になればなるほど、みんなでよってたかって「なんとか」してしまう、たくましい生活である。そんな「なんとか」ライフをアライヴしたのだから、このフェスに参加した100人はさぞかしみんなたくましくなって帰ったのではないかと思う。こないだ、この「なんとかフェス」をドキュメントした映画「なんとかフェス・ザ・ムービー」をみた。この映画は「革命後の世界」を先につくって 生きてしまった「百人一揆」の記録である。「もうひとつの世界」は可能なだけでなく、もうとっくに生きられはじめている。見よ、呆れよ、そして、おもしろければ、来年、参加したまえ。これが「革命後の世界の暮らし」だ。」(イルコモンズ) 「いま世の中は確かにひどい。でも「その隙間をぬって、どうやって賢く生きていくのか」という規則の厳しい高校に通う生徒みたいな考え方だけは絶対にしたくない。お目こぼしで生きて納得するような、「優秀な奴隷」ではありたくない。やはり何かを突破したい。そのためには、自分たちの空間は自分たちの手でつくるしかない。日本は先進国で金持ちだから豊かな国だって、みんな勘違いしていると思う。どこが豊かなんだ?全然豊かな国じゃない。むしろ経済的に三流、四流の国になればいいと俺は思っている。日本が世界から相手にされないほど貧乏でマヌケな国になれば、自分たちのことは自分たちでやるという強力なコミュニティが、草の根でつくられていくはず。こういう話はすごくとっぴに聞こえるかもしれないけど、俺はけっこう現実的に考えている。かつての学生運動や左翼運動みちあに、権力をぶっ壊して新しい権力をつくろうという考えの方がずいぶん気のながい話で、現実的ではないと思う。権力を倒さなくても、自分たちのできる範囲で「革命後の世界」をつくる。自分がやりたい生き方のモデルケースを、こっち側から先に提示する。そうやって好きなことを勝手にやる人たちがあちこちで出てくれば、日本はもっともっと面白くなると思う」(松本哉) ▼「なんとかフェス2011」(長野県・安茂里ジローズ・マウンテン) こうした「野生の生活」を構想し、実際に営みはじめた「21世紀の野蛮人」たちが、いま・ここで先取りしてみせているものがある。それは「原発のいらない生活」だ。こうした野蛮人たちに寄り添い、自らもまたそうした野蛮人たちの一人として声をあげ、「電気の奴隷のくに(エレクトリック・スレイヴズ・ランド)」の「原子力に飼いならされた家畜人=アトミックアニマルズ」たちを解放する、そういう野生の学問が必要だと思う。それが自分が考えるアマチュアサイエンスとしての「野生の生活人類学」である。
by illcommonz
| 2011-12-14 21:10
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