はじめに、ふた、ありき
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【参考映像1】▼柄谷行人「デモについて」(2011年) ▼イルコモンズ「このくにのデモをめぐる言質の変化について」 (松本哉+イルコモンズ「デモから振り返る2011年 日本と世界」 2011年12月17日 東京・代々木カタログハウス、のための走り書き) 2011年のデモをふりかえって(今年は4月10日以降、33回のデモに参加した)、この年のデモに起きた最も大きな変化は何だったろう、と考えてみた。まず、これまで一度もデモに参加したことがなかった人たちがデモに参加するようになり、デモの参加者の数が増えたということがあげられると思うが、しかし世界的にみれば、もともと少なかった数がその何倍かに増えただけのことで、こうした規模の拡大や量的な増加はそれほど決定的な変化とはいえないと思う(なんでもかんでも量ではかろうとするのが資本主義の考え方だ)。それに「レヴェル7の原発事故」という事態の深刻さを考えれば、依然としてその数はまだ少ないといわざるをえない。それよりもむしろ、デモについての言質がすこしづつ変わってきたことの方が、これまでになかった変化かもしれない。もともと、このくにには「アクティヴィズム・フォビア(=運動嫌悪)」※01と呼びたくなるような社会的風潮があり、デモについては、「うるさい、迷惑、交通の邪魔、意味がない、自己満足、ただ騒ぎたいだけ」といった否定的な言質が多かった。一度などは、「今度またやったら、刺すからな」※02といわれたこさえある。それが3.11以後、すこしづつだが変わりはじめている。とりわけ知識人や表現者たちの発言やことばに、その兆候をみてとることができる。たとえば、いとうせいこうは、9月11日のデモの参加者たちを前に、「君たちは路上の華だ、建設的な人間だ」とラップし、柄谷行人は記者会見の場で「新しいデモの形式をつくりだした若い人たちに感謝してます」と述べた。 【参考映像2】 ▼いとうせいこう+DJ DMX「路上の華」(2011年) デモの参加者をエンパワメントするこうした発言は、海外ではよく聞かれるが(たとえば1999年のシアトルでのトム・ヘイデンのスピーチや、最近ではOWSでのマイケル・ムーアのスピーチなど)、このくにでは長いあいだ、ほとんど皆無だった。 【参考映像3】 トム・ヘイデン「ニュージェネレーション・オブ・アクティヴィスト」 それがいますこしづつ変わりはじめている。ところで、このくにの「アクティヴィズムフォビア」はいつはじまったのだろうか。これを日本人の「国民性」だとか「民族性」などに還元して語るのはまちがいだと思う。かつて柄谷行人が「日本近代文学の起源」でやってみせたように、どんなに自明のものであるように思えても、それにはかならず「起源」がある。しかもその「起源」はそれほど遠くない過去のどこかにある(たとえば「風景」や「子供」という概念は明治30年代にその起源がある)。「アクティヴィズム・フォビア」をただ嘆いてみてもはじまらない。そうではなく、「アクティヴィズム・フォビア」の「起源」を問わなければならない。「起源」があるということは、つまり、「終わり」があるということであり、それは「変えられる」ということだ。だから、誰がこのくにに「アクティヴズム・フォビア」をひろめたのか、それはいつからどのようにひろまってしまったのかと問わなければならない。たとえば、このくにの「アクティヴィズム・フォビア」を考えるうえで、高橋源一郎の次のことばはきわめて示唆に富んでいると思う。 グラフィティアートを毛嫌いする人の理由ははっきりしている。 自分がおとなしく従っている秩序に反抗する人間が疎ましいのだ。 自分みたいにおとなしくいうことを聞け、と思うからだ。それは、 デモを嫌う人たちの気持ちと似ている。 (高橋源一郎) これはこう云い変えることができるだろう。 デモを毛嫌いする人の理由ははっきりしている。 自分がおとなしく従っている秩序に反抗する人間が疎ましいのだ。 自分みたいにおとなしくいうことを聞け、と思うからだ。それは、 グラフィティアートを嫌う人たちの気持ちと似ている。 「起源」はかならずしもひとつではない。それはいくつもあるだろう。だから近現代の社会政治史だけではなく、このくにの「サブカルチャー」が「カウンター」を失って、「おたくカルチャー」に変わっていった過程や、そこで起きた「動物化」ということなどについても考えなければならないと思う。それはこれからの課題である。 最後に云いたいのは、私たちはリーダーやヒーローを必要としないが、サポーターたちの創造力や文芸的な介入をおおいに歓迎するということだ。「アクティヴィズム・フォビア」を脱構築することができるのは、それだと思う。わたしたちは「新しい世代の反原発ムーヴメント」を祝福する言辞を心から待望している。なぜなら、この新しい世代のデモにはまだ、「コール」が欠けているからで、そうした介入と混交のなかから、これまでのシュプレヒコールとはちがう、まったく新しいリズムやリディムをもったコールがあらわれてくることを期待している。 文責:イルコモンズ(大マヌケ学者) .............................. [注釈] ※01:中村友紀が撮影・編集した「NO NUKES! ALL STAR DEMO2 渋谷1203」(2011年)には日本における「アクティヴィズム・フォビア」の一端をみることができる。 ※02: イルコモンズ「高円寺パトロール隊さんへ」(2008年12月25日) http://illcomm.exblog.jp/9110379/
by illcommonz
| 2011-12-17 01:08
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