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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼「なぜ」という問いが立てられる一瞬だけ「うつし世」に現れることが許されている「幽霊」
▼「なぜ」という問いが立てられる一瞬だけ「うつし世」に現れることが許されている「幽霊」_d0017381_3343191.jpg 自分が世の中のさまざまな事柄について「相対主義的なものの見方や考え方(絶対的なものや不変のものはないとみる見方や考え方)」をするのは、大学院で文化人類学をしこたま学んだせいなのだが、実生活における人間の内面についても同様に、相対主義的な考え方をしてしまうのは、大学のころ、分析哲学にはまっていたせいだと思う。きっかけは、アンスコムの「インテンション」の翻訳者の講義を受けたことで、下記の議論と同じように、ライル、ウィトゲンシュタイン、アンスコムという流れのなかで、人間の「意志」や「意図」というのは、「機械の中の幽霊」であって、それは「なぜ」という問いが立てられるその一瞬だけ「うつし世」に現れることが許されている「幽霊」のようなものだというような話を聞いたせいだと思う。

中村昇「意志」あるいは「意図」について(抜粋)
 「反因果説の淵源であるウィトゲンシュタイン、「意志」を「機械の中の幽霊」として否定するライル、反因果説の代表者アンスコムの諸説を検討してみたい。「意志」とはどのようなものであるかということを、ウィトゲンシュタインはつぎのように定式化している。「私が腕を上げるという事実から私の腕が上がるという事実を引いたら何が残るのか」。古典的な意志についての理論では、この引き算の答えが「意志」ということになる。つまりわれわれの行為というのは「物理的出来事+意志」という足し算の答えということになる。ライルは、このようにわれわれの行為に必ず付随している「意志」を否定する。「意志作用」という概念は「人為的に作られた概念」であり、「フロギストン」や「動物精気」と同じような一時期つかわれてはいたが、現在では無用となった概念と同じというのである。ライルによれば「意志理論」は「引き金を引くという身体的行為は引き金を引くことを意志するという心的行為の結果生じたものであるということを主張する因果命題」を主張していることになる。つまりわれわれの精神的な働きが原因で、身体的な運動が結果としてひきおこされるという考えである。このような理論をライルはいくつかの理由で否定していく。まずわれわれの日常生活のなかでは、意志の働きそのものがあらわれてくることはないとライルはいう。小説や日常の会話のなかでも、身振りや感情については描写したり語ったりするが、「意志」そのものについて記述したりはしない。ライルはつぎのような例を使ってそのことを説明する。「少年は高飛び込みをするという意志作用をどの瞬間に経験したのだろうか。それは彼が梯子に足をかけたときだろうか。あるいは最初の深呼吸をしたときだろうか。「1、2、3、飛び込め」と数えおえ、しかしまだ飛び込んでいないときであろうか。それとも跳躍するほんの一瞬前であろうか。」このように「意志の働き」の存在を具体的に考えてみると、われわれの日常には、結局のところ「意志」はどこにも存在しないことになる。それではなぜわれわれは、このようにそもそも存在しない「意志」という働きを重視するようになったのだろうか。ライルの言い方ではそれは、「機械論の幽霊に対する不安」によるということになる。外部世界は、物理的な法則によって厳格に支配され、われわれの価値を評価する活動及び価値評価をあらわす語は、そのような物理法則の埒外にあると信じられていた。そのようなどこにも所属しない価値評価語をすくうために「意志作用」が重視されたとライルは言うのである。このような「機械論」はライルによれば単なる「憑物」ということになる。ライルによって結論的に言われるのは、「人間は機械ではない。まして、幽霊が乗り込んでいる機械などではさらさらない。人間は人間である。」ということであり、そしてそのような「人間」である「われわれはたんに「彼はそれを行なった」と述べるのみであって、「彼はそれをひきおこすようなそれ以外の何事かを行なったかあるいは経験した」とは述べない」ということである。このようにしてライルは、「意志」というものを存在しない無用のものとして葬り去る。そしてライルによって否定された「意志」は、その意味を少し弱められて「意図」というかたちで主題となる。
 つぎに「意図の反因果説」の最も有名な著作であるアンスコムの『インテンション』について検討してみたい。アンスコムによれば、「意図行為」とは、「観察に基づかない当人に知られる出来事」であり、「なぜ」という問いにたいして、(a)過去の出来事を述べる(b)当の行為に解釈を与える(c)ある未来の出来事を述べる。という三つの答え方をするものということになる。まずは「観察に基づかない」ということはどういう事なのか。「たとえば、われわれは壁を黄色に塗ろうと意図してそれを実行することがあるが、自分が壁を黄色に塗っていることを「観察に基づかないで知っている」と言えるだろうか」という問題が出てくる。つまり「壁が黄色である」とか「壁を黄色に自分が塗っている」といった観察に基づく行為は、「意図行為」そのものではなく、その結果として出てきたものなのだ。「意図行為」そのものは、あくまでも観察に基づくことなく、知っているものなのだ。しかしウィトゲンシュタインの弟子であるアンスコムが、われわれの内側の経験として「意図行為」そのものを前提しているわけではもちろんない。「意志」や「意図行為」という実質的なものは、ライルの段階で否定されている。アンスコムは次のように言う。「ある行為を意図的なものとして記述する場合、なされた時点におけるその行為に付随する何かあるものを付与しているのではない。行為を意図的と呼ぶことによってそれを意図行為のクラスに帰属させているのであり、したがって、私が規定した意味で「なぜ」という問いがその行為に適用できることを示しているのである。」だからこそアンスコムの「意図行為」にとって、「なぜ」という問いは決定的なものとなるのだ。「なぜ」という問いをといかけ、その答えを得ることによってしか、それが「意図的行為」かどうかは判断できないからである。そしてこのような「なぜ」という問いに対して先に述べた三つの答え方をするのが、「意図行為」であるということになる。
(a)「過去の出来事を述べる。」
 これはアンスコムによれば、「復讐」や「感謝」などに見られるもので、たとえば誰かを殺したときに、「なぜ、殺したのか」と質問され、「彼が私の兄を殺したからだ」と過去の出来事を記述する答えをする場合である。そしてそれはとりもなおさず、「その彼の行為が許せないから」という善悪の観念が導入でき(「心的原因」との区別)、そのことによって自分の行為を「解釈」することになり、したがって、この行為が、「意図行為」になるとアンスコムは言う。つまり、「兄が殺された」という事実によって、反射的に「復讐」したわけではなく、そこに「意図行為」が介入したから、「復讐」したということになるのだ。これが、「なぜ」という質問を受けた際の「解釈」ということである。
(b)「当の行為に解釈を与える。」
 なぜアンスコムが、「解釈」ということを重視するかというと、「観察に基づかない知識」のほかの場合、つまり、アンスコムが「心的原因」と呼ぶものと区別するためである。「心的原因」というのは、アンスコムの例を出せば「うつらうつらしていて、ときどきハッとして身体全体を反射的に動かす動作」の「原因」となるものである。アンスコムも「原因」と「理由」は明確に区別できるわけではないといっているが、少なくとも「意図行為」は、「原因」によっておきる行為ではなく、「なぜ」と聞かれた地点で、「解釈」し、「理由」を答える行為なのだ。
(c)「ある未来の出来事を述べる。」
これが最も狭い意味での「意図」をあらわしている。たとえば、「誰かが…のことを恐れてあることをなした」とか「彼は…がないように、…が生じないように、…をなした」といった場合である。
 アンスコムが「意図行為」と呼んでいる三つのケースを見てみると、「原因」と「理由」という概念が重要であることがわかる。アンスコムによると「原因」とは、「「なにがその行為を導き、その行為をもたらしたのか」という問いに対して答えられるもの」である。つまり、そこから出発し、結果を引き起こすものということになる。それに対して、「理由」は、行為をなした時点から出発して、多くの選択肢から一つ選ぶもの、ということになろう。ウィトゲンシュタインは、「原因」と「理由」についてつぎのようにいっている。
 「君の行為の原因はこうこうだという命題は一つの仮説である。」
 「よい理由とは、そのように見える理由のことである。」
 「理由というものは、ただゲームの内部においてのみ提示される。理由の連鎖は終点にくる、そしてそれはまさにそのゲームの限界においてである。」
 ウィトゲンシュタインもライルと同じ結論に至っているように思われる。つまり「意志」というものは存在せず、われわれは端的に行為しているだけだと言っているように見える。例えばつぎのようにいっている。「自分の腕を上げるとき、私は大抵の場合、腕を上げようと試みていない。」われわれは、何か行為をするとき、それを意欲し、試みているわけではなく、「行う」という幅も容積もない一つの行為をしているだけだと言いたいのだ。「意図」あるいは「意志」といった内的なものを想定するのは、ウィトゲンシュタインが執拗に攻撃した「私的体験論者」と同じ間違いに陥っていることになる。引用のつぎの二節は、そのことを言っている。
 「われわれの間違いは、事実を<根源的な現象>と見るべきところで、説明を探してしまうことである。つまり、このような言語ゲームが行われている、と言うべきところで、説明しようとすることである」
 「言語ゲームをわれわれの体験によって説明することが問題なのではなく、言語ゲームを確認することが問題なのだ。」
 つまりは、行動からそれが何をしているのかは、やはり、その当人が言語化しない限りわからないというのだ。アンスコムによる狭義の「意図」とは「未来視向的」なものであった。しかしその同じアンスコムが「意図」を論じる際に最も重視した問いは「なぜ」という問いであった。この「なぜ」という問いに対する答えというかたちでしか、「意図」はあらわれない。そうなるとライルの言う、「「意志」が「フロギストン」や「動物精気」と同じだ」という言い方は、少し変更されなければならない。「フロギストン」も「意志」も無用の概念であることは確かだが、「意志」や「意図」は、「なぜ」という問いを発すると、ある過去の時点であたかも存在したかのようなかたちで、あらわれるのである。この点で、「フロギストン」とは明らかに異なる。「幽霊」であることに変わりはないが、「なぜ」という問いが立てられる一瞬だけ「うつし世」に現れることが許されている「幽霊」なのだ。」
.....................................................................
 いま読んでも「なるほど」と思う(そして、この議論に使われてないアンスコムやウィトゲンシュタインの例え話はいま読んでも笑える)が、いまあらためて読みなおすと、ライルやアンスコムたちが葬り去った「意志」や「意図」だけでなく、まさに「たらいの水と一緒に赤子まで流す」式に、人間の内面に存在するとされる、別のものまで一緒に葬り去ってしまっていたのではないか、という気がしてきた。と同時に、なぜ後に文芸批評や現代美術に関心を持ったのかも分かった。それは、文学や芸術というものが、「なぜ」という問いが立てられる一瞬だけ「うつし世」に現れることが許されている「幽霊」を、いつでも呼び出し、それに場をあたえることのできるメディアだからだと思う。ところで、分析哲学的にいうと、エドワード・アビーのいう「行動なき感傷は精神の廃墟である」という命題はただしいのだろうか。さしずめライルなら、それは「亡霊たちの廃墟」だというのだろうが、それはともかく、調べてみたら、この「「意志」あるいは「意図」について」の筆者は、同じ大学の同じ学部の教員だったので、その後の分析哲学によって、人間の内面にあるとされる何が葬り去られ、なにが生き残っているのか、その在庫調べをするために、来年、こっそり講義を受けてみようと思っている。
by illcommonz | 2012-02-07 03:48
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