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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼「不謹慎」をおそれてはいけない、民衆の「不謹慎」が原発をとめる。


 杉並の脱原発デモに現れたカラオケやフォークダンス、ラップやパンク、お菓子センターやコーラス、ちんどんやマーチングバンド、ベビーカーや移動バー、そうした動きまわることをやめないポータブルで雑多なもののブリコーラジュ(寄せ集め)がつくりだす、「異種混淆性」とその「通俗性」、それを互いに承認しあい、肯定しあい、尊重しあい、決して手放さないようにすることが大切だ。ごちゃごちゃして、てんでまとまりがなく、ゾクソクするほど俗っぽい「有象無象」な人びとこそ、ほんとうの意味での「民衆」であり、イタリア人はそれを「マルチチュード」と呼ぶ。そして「〈顔〉のみえる人と人との〈あいだ〉の複数的なネットワーク」を作りだすデモは、民衆的であればあるほど、その潜在的な力(=威勢)をデモンストレートする。民の表現は多種多様・多彩多芸で、それは国家や権力が統制することもできない「野生」だ。だから民衆は「不謹慎」といわれることをおそれてはいけない。「不謹慎」とは、「素人は口出しをするな」「一般人ははひっこんでろ」という謹慎の命令であり、民衆が持つ力を奪いとる禁令である。もう一度云う。民衆は「不謹慎」をおそれてはいけない。民衆の側から謹慎を命じなければならない連中(政治家、役人、御用学者、御用商人、御用メディア)はやまほどいる。デモが立派や上品である必要はない。きれいだったり、うまくある必要もない。デモは一糸乱れぬパレードではない。デモは本来的に不埒なものである。デモの民衆は、民衆のぶんざいで、民衆のくせに、民衆だからこそ、民衆でしかできないような「不謹慎」なやり方(デモなのか祭りなのかわからないようなやり方)で国の政策に猛反対し、抗議するのがよい。そもそも民主主義(=デモクラシー)はそうやってはじまった。その昔、政治に口出しすることなど「とんでもない」と考えられていた「デモス=平民」たちが、デモスのぶんざいで、デモスのくせに、政治に口を出したところからデモクラシーがはじまった。花森安治が云うように、民主主義の〈民〉は庶民の〈民〉であって、市民の〈民〉ではないし、ましてや選挙民の〈民〉ではない。日曜に杉並に出現したデモは、まさに「デモクラシーのはじまりの風景」を彷彿させるものだった。見よ、呆れよ、そして可笑しければ笑いたまえ、泣いても笑っても、これがデモクラシーだ。それがついに日本でもはじまったのだから、脱原発はもはや時間の問題だ。原発推進派は今から覚悟しておいた方が身のためだろう。原発はとまる。原発はとめられる。

[参考]
 「生活世界の共同体での日常的実践とそれを支える〈顔〉のみえる具体的な人と人との関係の複数的な連鎖を認めるということは、均質で閉じたローカルな共同体の文化を復権させることでも、あるいは家族的な親密圏を守ることでもなく、家族などの親密圏をはるかに超えた人と人とのつながりのなかで、生活世界でのもののやりかたであるブリコラージュによって、それを再領土化し、我がものにしているということを正当に認めることなのである。(...) 重要なのは、(...)〈顔〉のみえる人と人との〈あいだ〉の複数的なネットワークを作りだし、そこでのもののやりかたを維持して、システムと生活世界のあいだを、(...) 行き来する術、あるいは「境界を生活の場とする」術を手放さないことだろう。そのようなシステムと生活世界のあいだの日常的かつ無意識的な行き来による異種混淆性や越境を語る必要があろう。そして、それは、「民衆的なもの」をポピュリズム的なナショナリズムに陥ることなく語ることでもある。」(小田亮「生活世界の植民地化に抗するために―横断性としての「民衆的なもの」再論」)
by illcommonz | 2012-02-23 02:27
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