はじめに、ふた、ありき
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▼パウル・クレー「さえずる(ツイートする)マシン」 「暗闇に幼な児がひとり。 恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれ歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。」(ドゥルーズ+ガタリ「リトルネロについて」) 「自分のなかにカオスを持ってない人間は、躍動して輝く星を生み出すことはできない」(ミシェル・フーコー) 「チムチム・チェリー」とか「フニクリ・フニクラ」みたいな旋回するリトルネロがある。むかし、ドゥルーズとガタリが 「さえずる機械」のなかで書いていた、この一節を思い出した。「暗闇に幼な児がひとり、恐ろしくても、小声で歌をうたえば安心だ」。神経症と不安の時代に生きる幼な児たちには、こういう歌が必要だ。」(イルコモンズ) ................................................. NYのズコッテイ公園で行われていた「オキュパイ・ウォール・ストリート」のドラムサークルに参加していたとき、ドラムサークルの最後に、メンバーのひとりだったジョンがいつもきまって、こういうアナウンスしていた。 「このドラムサークルは、このムーヴメントの「パルス」である。パルスが運動をつくり、パルスがないものは、死んでいる。」 デモの「パルス」もドラムである。カオスであれ、マーチであれ、キャセロールであれ、それがデモをエンパワメントする。この考えは変わってないが、デモには「パルス」だけでなく、「リトルネロ」も必要だと思っている。最近よくホーンをかついでデモにゆくのは、デモに「弾み」をつけ、「持続可能」にするための「リトルネロ=リフ(レイン)」をみつけるためである。リトルネロとデモについて、五野井郁夫は次のように書いている。 「わたしたちは、一九六〇~一九七〇年代のイメージから、デモというと、どうしてもカオス的で暴力的なイメージを持ってしまうが、それもマスメディアがつくりあげてきた「スペクタクル」としてのデモのイメージにすぎない。では、そのデモに歌がくわわると、どのような効果が生まれるのだろうか。ドゥルーズ=ガタリは、歌の持つ力について次のように説く。「歌はカオスからとびだしてカオスのなかに秩序をつくりはじめる。ひとりの子どもが、学校の宿題をこなすために、力を集中しようとして小声で歌う。ひとりの主婦が鼻歌を口ずさんだり、ラジオをつけたりする。そうすることで自分の仕事に、カオスに対抗する力を持たせているのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「ミルプラトー」)。歌がカオスから秩序を導き出すことを確認した上で、ドゥルーズ=ガタリが同書で案出した「リトルネロ」という概念に注目したい。リトルネロとは、音楽用語である「リフレイン」を哲学用語化した概念である。たとえば幼児が暗がりを歩くときに、おびえをなくすために口ずさむ歌。このささやかながらも自身の立ち位置と存立しうるテリトリーを必死に保ちつつ、「どうにか先に進んでゆく」ために、くりかえしおこなう反復行為と表現を、リトルネロと呼んだ。このリトルネロの概念をデモという文脈にぶつけたとき、デモが歌によってカオスではなく、秩序へと、まさに非暴力直接行動の民主主義の表現へと変貌を遂げたとき、ひるがえって、暴力的なイメージが転置される。「子どもは歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体が跳躍なのだ」としてドゥルーズ=ガタリは、歌の持つ力に注目する。この「跳躍」がサウンドデモにはある。リズムにのって拍子をとり、その足取りをステップへと変えて踊りながらデモをする人びとには、音というデモのためのサウンドのトラックがあり、そのトラックに沿ってデモ隊というラインができあがる。既存のデモのリトルネロのなかから生成されたサウンドデモは、対決ないしは出発のリトルネロとして、二〇〇〇年代以降、スペクタクルの社会と政治のスペクタクル化にたいして、それらの外にでるためのひとつのオルタナティヴを提示してゆくことになる。この点について、アクティヴィストの小田マサノリは、当時のことを「サウンドデモのたくさんのスローガンの中のひとつに、「スペクタクル禁止」というのがあって、あれはオーディエンスになるな、踊れということなんです。それは単にダンスをしろということではなくて、あのときの状況に対して反応しろということで、踊る場所でなかったはずの路上をダンスフロアにした、一瞬だけどそこを解放区にした」と述べている。つまり、「TAZ(=一時的自主管理空間)」が出現したのだ。」(五野井郁夫「デモとは何か/変貌する直接民主主義」 人(とりわけ子どもや女性たち)に「弾み」と「持続の力」を与える歌や「リトルネロ=レフ(レイン)」の大切さについては全く異論がない。デモに必要なのはそれだ。ただ、「サウンドデモ」にしろ、それを補完するものとして生まれた「どかどかうるさいマーチングバンド」にしろ、それがデモに与えているのは、「リトルネロ」よりもまず「パルス」であるような気がする。自分が記憶している限り、「サウンドデモ」の音/楽が、デモに決定的な「リトルネロ」を与えた瞬間は、それほど多くはない。たとえば、初期の渋谷のイラク反戦デモで、DJ MAYURIがビースティ(・ボーイズ)の「ファイト・フォー・ユア・ライツ」をスピンしたときが、おそらくその最初で、この曲の「リフ(=リトルネロ)」が文字通り、イラク反戦デモの「アンセム」となり、「サウンドトラック」になった。最近では、高円寺の「原発やめろデモ」で、同じくDJ MAYURIがレイジ(・アゲインスト・ザ・マシン)の「キリング・イン・ザ・ネーム」をスピンしたときがそうで、このときはレイジのトラックと「原発反対!」のコールが見事な「コール&レスポンス」をつくりだした。これが「アンセム」にならなかったのは、イラク反戦デモのときのように、それをひきつぐDJやそれをレポートする音楽ライターや音楽誌がなかったからだろう。 それはともかく、「サウンドデモ」にしろ「どかどかうるさいマーチングバンド」にしろ、それはデモやムーブメントに不可欠な「パルス」を備給するものだが、そのカオスのなかに「カオスモス的(カオス=混沌とコスモス=秩序の合成語)」な秩序をもたらす「リトルネロ」を、いつもつくりだせているわけではない。このあたりに、ダダもれの「サウンドデモ」や「どかどかうるさいだけのマーチングバンド」のあやうさがある。「リトルネロ」のないカオスは弾圧や不和をまねき、転置したはずのカオスと暴力のイメージをふたたびよびこんでしまうからだ。とはいえ、これは「カオスか、リトルネロか」という二者択一ではなく、「カオスも、リトルネロも」であり、デモには「パルス」だけでなく、思わず誰もがが口にしたくなるような、反復可能で持続可能な「リフ」も同時に必要なのだ。特に3.11以後の現在、放射線の影響を感受しやすい子どもたちや女性たちが率先して口にできるようなリフが望ましいということは云うまでもない。とはいえ、その「リフ」はかならずしも作曲家や音楽家がつくるものではない。それはカオスの中から自然発生してくるものだと思う。今日もそれを見つけに「怒りのドラムデモ」にゆく。ECDがイラク反戦デモのカオスのなかから「云うこと聞くよな奴らじゃないぞ」という「リフ」をみつけだしてきたように。
by illcommonz
| 2012-06-08 01:47
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