「児童文学はやりなおしがきく話である」ということです。なにかうまくいかないことが起こっても、それを超えてもう一度やりなおしがきくんだよと、たとえいま貧窮にくるしんでいても、君の努力で目の前がひらける。君をたすけてくれる人間があらわれるよと、こどもたちにそういうことを伝えようと思って書かれたものが多かったと思うんです。そうじゃないでしょうか。要するに児童文学というのは、「どうにもならない、これが人間という存在だ」という、人間の存在に対する厳格で、批判的な文学とはちがって、「生まれてきてよかったんだ」というものなんです。生きててよかったんだ、生きていいんだ、というふうなことを、子どもたちにエールとして送ろうというのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけだと思います。「こどもにむかって絶望を説くな」ということなんです。僕らはそうならざるを得ません。ふだんどんなにニヒリズムとデカダンにあふれたことを口走っていても、目の前の子どもの存在を見たときに、「この子どもたちが生まれてきたのを無駄だと言いたくない」という気持ちが強く働くんです。子どもたちが正気にしてくれるんです。」(宮崎駿「吹き始めた風のなかで」)
「私たちはいまどんな記憶を回復したいと思っているのか。
私には未来はこの思いからはじまるという気がしている」
(内山節「怯えの時代」)
「もし、世の中はどうなるだろう、とだれもかれもが、ただ心配するだけで、指一本動かさなかったら、世の中は少しもよくならないでしょう。ところが、みんなが、「どうなるだろう。」ではなくて、「どうしよう。」と考え、「こうすればよくなる。」と思い、そのように心をあわせて動いたらどうでしょう。世の中は、それでもよくならないでしょうか。世の中といい、時勢といっても、私たちの外にあるのではなく、私たちみんながつくっているものです。もちろん、ひとりの力ではどうなるものではありませんけれど、みんなが右にいこうと考えれば、それは右にいき、みんなが左にいこうと思えば、それは左にいくものなのです。かんじんなことは、「どうなるだろう。」ではなくて、「どうしよう。」にある。そして、その点では、じつは、世の中も、ひとりひとりの人間も、かわりのない共通のところを持っているのです。原子力時代のこれからについても、やはり、同じことがいえましょう。暗い面と明るい面、希望と不安、この二つがからみあっている現在の問題は、そこでのかんじんな問題は、やはり、「どうなるか。」ではなくて、「どうするか。」です。」(吉野源三郎「人間の尊さを守ろう」)