めったに論じられないことだが、ラディカルな民主主義者たちは、いまはもうすでに死んでしまった者たちが、もし、いま目の前にある問題についての意思決定や合意形成に参加できたら、はたしてどうしただろうか?と想像する視点、あるいはまた、いまはまだ生まれてない者たちや、これから生まれてくる者たち、さらには、意思決定や合意形成に参加できない者たちが、もし、意思決定や合意形成に参加できたら、どうしたいだろうか?と想像する視点を持つので、たまたまその意思決定や合意形成に参加できたにすぎない者たちによる多数決や投票は、決してすべてではないし、ただしいとも限らない、と考える。まさに、いま、こういうラディカルな民主主義者の想像力がためされているような気がする。ところで、ホピ族のラディカルな民主主義者たちは、大事なことを決めるときには、七世代先の者たちのことまで考えて決めるというが、自分の場合は もし花森安治が生きていたらどうしただろうとか、岡本太郎や茨木のり子が生きていたらどうしただろうかと考え、それから、これから生まれてくるこどもたちに、「あのとき、あなたは、どうしましたか?」とそう問われたとき、ちゃんと返事ができるようにと、そう考えて決めることにしている。

「さて、ぼくらはもう一度、倉庫や物置きや机の引出しの隅から、おしまげられたり、ねじれたりして錆びついている〈民主々義〉を探しだしてきて、錆びをおとし、部品を集め、しっかり組みたてる。
民主々義の〈民〉は庶民の民だ。ぼくらの暮しをなによりも第一にするということだ。ぼくらの暮しと企業の利益とがぶつかったら、企業を倒すということだ。ぼくらの暮しと政府の考え方がぶつかったら、政府を倒すということだ。それがほんとうの〈民主々義〉だ。政府が本当であろうとなかろうと、今度またぼくらがうじゃじゃけて見ているだけだったら。また〈幻覚の時代〉になってしまう。そうなったら今度はもうおしまいだ。」
花森安治「見よぼくら一銭五厘の旗」(1970年)