
【「子どもっぽい」とか「甘い」といわれるような、もうひとつのペルソナを手放さないこと】

「行動をともなわない政治意識は、荒廃をみつめ、ものごとの中心部ばかり見ようとします。一方、直接行動をする人たちは、その行動自体のなかにオルタナティヴをつくりだし、中心部の腐敗から視線をズラして、その周辺部や自分たちの側にある奔放な可能性の方に目をむけるので、希望を育むことができるのです。一方、エスタブリッシュされた運命論者たちにとって、このような希望についての考え方は、非常に気に障るもののようです。彼らにとってのニュースとは、救いようのない厄介な知らせだけであり、そのメッセンジャーであることを自認し、またそれをいつもくりかえし教えてくれる。「失意」や「よくないニュース」「困難さ」ばかりを説きたがる人は、それによって「男らしさ」や「いかめしさ」「だまされにくさ」「現実を直視する強さ」を体現しようとしますが、現状は決して避けがたいものではないし、すべての道が下り坂ばかりとは限らないと考える人たちもいます。つまり、希望を持つということは、「女らしい」とか、「子どもっぽい」とか、「甘い」といわれるような、もうひとつのペルソナ(=社会的な人格)をすすんで身につけるということなのです。」(レベッカ・ソルニット)

自民党が政権をとり、「改憲」やら「国防軍」やら、威勢のいいことを云いだしたからといって、いや、云いだしたからこそ、安倍や石原のような「男」たちを相手に「気をひきしめていかなければいけない」とか、「気をゆるめてはいけない」とか、「総力戦だ」というのでは、「敵を憎むあまり敵に似てしまうこと」になりかねないので、「幼稚」といわれようが、「のんき」といわれようが、去年にまして、今年も「ごろん。。。」といこう。幼稚で結構、この坊ちゃん刈りはダテではないのだ。