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ちょっと前に、このブログに書いた『リラックス』の「ぼくたちの風景」 特集号でもとりあげられていた 安村崇の写真展を見てきました。 それぞれの写真いちまいちまいも それぞれにしかけがしかけられていて それぞれみてもおもしろいのですが、 今回の写真展がおもしろかったのは、 「日常らしさ」と「自然をなぞる」そして 「せめて惑星らしく」という連作を 「並置 juxtapositioning」して展示 することで、残酷なくらいにはっきりと みえてくる「写真の真実」でした。 その前に、このしかけにみちた展示について、ひとはどんな批評を書くのだろうと思って、 カタログに目をとおしてみたのですが、残念ながら、この作家のそれぞれの連作の 作風や主題についてふれてる文章しかみ、あたりませんでした。もちろんそれでもよくて、 たとえば、この作家が写しとる「自然」について、この展覧会の企画者である北澤ひろみ さんのテキストでは、この作家の作品に、たちあらはれする自然は、ネイチャーでも ノモスでもなく、「ピュシス」であると、ギリシャ哲学用語で明快に解説してくれてますが、 ギリシャ哲学の用語で筋道をたててきちんと論理的にただしく説明されると、たちまち あたまがエポケー(判断停止)になってしまうという根っからのソフィスト(詭弁家)体質 なので、それとは別のルートから、今回の展示をみた観想を書くと、まずこの写真展を みて、まっさきにあたまにうかんだのは、ある不世出の作家のある小説の中の一文で、 それはこういうものです。 「文章を書くという作業は、とりもなおさず、自分と自分をとりまく事物との 距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」 D・ハートフィールド(1909-1938) 「気分がよくて何が悪い」(1936年)より 日常サイズの風景をとらえた「日常らしさ」にしても、天文学的サイズの風景をとらえた 「せめて惑星らしく」にしても、そこでは写真というものさしをつかって、事物との距離が 正確無比に測定されていると同時にその被写体深度がおそろしく狂わせられてもいて、 そのおかしな距離感からくるめまいのようなものが、この作家の風景写真のおもしろさ なんだろうなと思いました。わかりやすくいうと、タンスの上のキンチョールとその背後の 壁とのあいだのふくよかな距離も、銀河系とアンドロメダ星雲のあいだの何億万光年分 もの気の遠くなるような距離も、写真の皮膜の上ではまったく等距離になってしまうという、 すさまじしいまでの距離感の消失がそれです。この作家がとる写真は、あらゆる距離の しるしというものをすべてのみこんで、数ミクロンのプリント皮膜の上に定着させてしまう ブラックホールのようなところがあって、その暴力的なまでの圧縮は、このギャラリーで かつて開かれた「スーパーフラット」のそれをはるかに凌駕する凄まじいもので、それを メリーポピンズの哲学用語を使って表現するなら「スーパーカリフラジェリスティックエク スペリオドージャスなスケールのフラット感」ということになるかと思います。そしてこれが 最初にいった「写真の真実」であって、まさに「写真には表面しかない」というあたりまえの 真実をあらためて確認させてくれる展示でした。いいかえればそれは、どんなに身近な ものであれ宇宙的なものであれ、写真に定着されたその事物がいかにリアルに見えよ うとも、それを見る僕らは、その事物のそのとき限りの実在にふれ、それと交わることは 決してできないという、これまたとりかえしのつかないくらい確かな真実の開示でもあって、 それをみながらムーンライダースのうたの断片を思い出しました。「ぼくらは、スペース エイジ、孤独を知ってる」。そんなスペースヴァチェラー(宇宙の独身者)な気分にさせて くれる展示でした。あと、すごく気になったのが、「せめて惑星らしく」というタイトルで、 日本語の慣用として、「せめて」の前には、たいてい「・・・ならば」がくるのですが、さて、 では、「・・・ならば、せめて惑星らしく」の、「・・・」の黙示的な部分には何がくるのでしょうか。 無論これにはいろんな解答の可能性があると思うのですが、さしあたりイルコモンズが まっさきに考えたのは「グローバリズムの時代」あるいは「グローバリズムの世紀」でした。 それともうひとつ、素朴な感想をつけくわえておくと、「せめて惑星らしく」の写真をみたときの 感じは、「コヤニスカッティ」の前半のシークエンスをみたときの惑いの感覚とよく似てます ので、「文化人類学解放講座」の受講生はぜひ見ておいてください。ただし、両者には ひとつだけちがいがあります。さて、それはなんでしょう?ヒントはあらゆるものがフラット にみえる風景の中に、ちいさくちいさく写りこんでいるものたちがもってるものです。それは 砂漠のなかにころがった活版の一文字分くらいの立体感ですが、そのギリギリの立体感を キープしているものが何なのかは実際に写真の前にたって自分の目でみて確認してみて ください。ただし、そのなかにはひとつだけダミーがまじってるので、だまされないように 注意すること。 [追記] 実はこの文章の中にもひとつだけ、実在しないダミーの存在のことばがまじってますが、 どれだか、わかりますか?
by illcommonz
| 2005-10-05 02:20
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