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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼やがて、そこに、一匹の、身人類が...
(このコラムには画像はありません)

今日は予定よりはやめにポスターが納品され、検品も無事おわって、
仕事がはやく片付いたので、図書館で『新潮』11月号を読んできました。

都築(響一)さんの連載「夜露死苦現代詩」は、ほんとに毎回ハズレがなくて、
いつか、イルコモンズもこんな詩が書けるようになりたいものだと、毎回、
フハーッと、ため息をつきながら読ませてもらってます。

あと、都築(つづき)、といえば、今月号には、椹木(野衣)さんの「バングント展」
についての評論「希望のための、ささやかなテロ、のようなもの」のつづきが
載ってるので、それも読んできました。読んでみたら、この評論の前半を
読んだときに、このブログに書きとめておいた感想とだいたい同じで、
椹木さんもイルコモンズとおおかた同じような見方をしてたのだなと、
批評的共感を覚えました。で、もうたぶん、いい頃だと思うので、
比較のために、イルコモンズが『美術手帖』に書いたものを、
ここに一挙全文無断掲載します。

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「バングント領域/霊異記」 (イルコモンズ)

こ、れ、は、貧しくもなければ裕福でもなく、生存するために、なくてはならない
モノだけで、かよわくもなければかしこくもなく、また強くもなく、ただ...そう、
ただもう、ただただ勝手に生きのびてゆく生きものたちが、共に共有し合う
ナマの「生」の力を素手でつかみだし、精確に測量してみせた実験の劇である。
この「生」はおよそ国家や法律などお構いなしに、そしておそらくは人間と
そのドラマすら待たずに、つねにすでにヒトの身に宿り、眠ったまま生きて居る。
これは英雄的な生命力のものがたりではないし、ましてや、聖人の復活劇や
君主の再生の儀式でもない
。これは、バートルビー的潜勢力とよばれる、
相当にしぶといが、しかし同時に、ひどくあっけなくもある、ヒトの見えない
野性の「生」の快復のためのトライアルである。この実験は、生きながらにして
生きそこねている生きそこないの生きものであるニンゲンの、ゼロになる体に
耳をすまさせ、生きて居ることのショックとおののきの情動を交感させる、
と同時に、その生き方に対して残酷な宣告をつきつけるグランギニョルな
社会劇でもある。その宣告とは、ニンゲンは、食べなくても生きていけるものを
ムダに食べ、やらなくても生きていけることをムダに行い、生きたつもりや
生きたふりをするためにムダな生き方をしているということ、すなわち、
ニンゲンはムダムダムダムダムダムダムな生きものだということである。
「生きてゆくのに必要最低限以上のものを所有することは財産の横領であり
盗みである」とするマハトマ的なモノの考え方からすれば、ニンゲンのほとんどは
みなバイキングであり、なくてはならないもの以上のものをムダに消失させながら、
オーバードーズ&トゥーマッチに生きている。しかも、このニンゲンは、
もしそうしなければ、その分だけ手に入れることができたかもしれない他の
ニンゲンやケモノのたちの分け前をも余分に奪いとり盗み続けている。
さらにこの劇は「象徴として」この国の国土と人心をいまなお所有し続ける
一族のものがたり、とりわけ、昭和とよばれた時代のその終わりに上演された
国民劇を反復しかねないもので、妖怪"おいたわしき"や妖怪"おしたいもうしあげ"
たちの介入と蔓延すら招きかねない、まことにあやうきものであったが、
しかし、この劇は、魔物に対して自らの身をなげだし憑依された者が、
くらやみに飲みこまれた後にくるりと反転し、自ら結界を蹴破って出てくる
という最後の一幕によって救われる。こうして魔は祓われ、この、
ま、ち、な、か、の、じ、け、ん、は終わった。その晩、舎では家鴨が供犠され
貪り喰われたと伝えられる。カッコー。


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「お届けに参りましたがご不在でした」 (イルコモンズ)

前に飴屋さんの本で読んだことでウロ覚えなのですが、リスは冬眠の時、
まさかの時のためにそなえて余分に集めておいた木の実を穴に埋めておく
そうです。でも、たいていはその穴の場所を忘れてしまうようで、しかし、
そこからやがて新しい木の芽が生え、それが木になり、そして他のリスたちに
生の恵みを与えるのだそうです。僕らはこの間のぬけたリスの話がとても好きで、
もし、あるリスが冬眠の後、自分が埋めて忘れてしまってた穴をたまたま
見つけだし、そこにある木の実を目にしたらどう思うんだろうか、なんて想像
しながら、飴屋さんが過去に僕らに見せてくれたモノや、箱に入る前に
残していったモノを寄せ集め、それに細工とイタズラを加えてみたというのが、
今回の介入展示です。冬眠からさめた飴屋さんが、なにかをとりもどしたり、
あるいは、もう一度なにかにつながろうとする時の目印や暗号になればいい
くらいの簡単な気持ちでつくりました。タイミングとしては、展示があと残り
3日というときから始めて、あらかじめ最終日だけの限定展示、ということに
決めてたので、案外、楽に手を動かすことができました。あとは、サワラギ
さんがテキストから消さずに残していた「間」を使って、聞こえない文章を
聞こえるようにしたのと、大友さんの作品にすでにつねに介入していた
見えない共演者であるセミの存在を目に見えるものにした、ということ
ぐらいでしょうか....そう、実は僕らも、リスみたいに、自分でつくったものを
置いたり貼ったりするそばからアンポンタンポカンと健やかに忘れていって
しまうので、あとは記録用紙の方を見てください。テキストもブログに残して
あるので、ぜひそっちで読んでみてください。それと、今回の飴屋さんの
展示については、もう別に書いたので、ここでは引用をひとつだけ。
「動物をみてて、つくづく思うのは、目先のよし悪しや効率を超えて、動物の
やることにはムダがないということだ。だから、あらゆる結果を肯定せよ。
この世の全てを肯定せよ。……ポジティヴシンキングなんつーものは、
動物をみてりゃわかるのである」(飴屋法水)
。あ、そうそう、もう少しで
忘れるところでしたが、今回の「介入」を最後にイルコモンズは美術(展)に
介入するのを終わりにしますので、以後どうか悪しからず。じゃ、飴屋さん、
今度は美術以外のところで、また。

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で、同じような見方をしてたのだな、と思った点の、まずひとつめは、
"これは再生の儀式ではない"というところで、今回の評論のなかで、
椹木さんは、「誕生の儀式を再演し、そのことで新たな生を得たのだ」
という見方は「もっとも陥りやすい解釈」だとして、それを「はっきりと
否定する」モメントの所在を指摘しています(詳しくは本文をご覧下さい)。

ふたつめは、バングントの実験(椹木さんの云い方だと「賭け」)は、
その最後の局面で「反転」を試み、それによって魔を祓いのけ、
日常の暮らしに生還するそのモメントこそをしっかり見据えなければ
ならないというところで、椹木さんはそれをこんな風に書いてました。

「最後の最後でその意味を「生」の側へと裏返す(=否定する)」試みを
行っているのではないか。(でなければ)破壊と絶望は悪魔払いされる
ことはないであろうから。」

「魔」と「悪魔」、「祓い」と「払い」、というビミョーなちがいはありますが、
このへんのことば使いには「デビルマン」のテキストがエコーとして
響いているようです。

…という具合に、だいたい似たような見方をしていたようなのですが、
ただひとつだけ、決定的にちがう見方をしていたことが、さっき評論を
読んでわかったので、それを書きとめておくことにします。椹木さんは、
こう書いてました。

「そう、この作品のタイトルは「ソク・シン・ジン(即・身・人)というのだった」

そして実はイルコモンズは、あのひと文字欠けてた「ソク・シン・ ン」を
てっきり、「ソク・シン・マン」だと思いこんで、「人(じん)」だとはまったく
思ってもみなかったのでした。もともとカタカナ好きというのもありますが、
「デビルマン」のテキストが、反対側の壁にあるので、こっちの壁のは、
「ソクシンマン」だとそう思ったわけです。とはいえ「人(じん)」と「マン」
ですから、同じようなものだ、といえば、たしかにそうですが、「マン」は、
「人」よりも、もうすこし動物に近い「人類」とか「ヒト」とか「ニンゲン」という
意味にとれる語なので、てっきりそっちかと思ってましたが、実のところ、
これはどっちだったんですか?>飴屋さん

あ、そういえば、いま思い出しましたが、たしか、一番最初に見たときは
「ソク・シン・ ン」を、「即身展」だと思ったのでした。でも、結果的には、
「即天去私」というときの「即」の意味で、「身体のことわりにのっとって
生きることを展示する」という結末をむかえたわけなので、これもまた、
あたらずも遠からずでしょうかね。

で、話をもどすと、評論のおしまいでは、椹木さんもイルコモンズも、
飴屋さんの『キミは動物と暮らせるか?』の文章をそれぞれに引用し、
動物たちからはぐれた人間の話でもって、話の最後をひきとってもらう
という格好になってますが、そこで椹木さんが引用した文を読んでいて、
思ったことがひとつあったので、それを最後にここに書きとめたら、
それでバングント展をめぐる話をひとまず終わりにしようと思います。

椹木さんが引用してたのは、その本の「あとがき」に書かれてたことで、
それは、暴徒に刺殺されて死んだオウム(真理教)の科学担当者が、
『かもめのジョナサン』を愛読してたという話をうけて書かれたもので、
そのへんから、やや長めに引用するとこうなります。

「その科学庁長官が本当の科学者だったら、ただ生きるカモメを観察し
続け、ただ生きるカモメから何かを学んだはずだ。動物はすべて、ただ
生きて、ただ死んでいく。決して肉体を超えようとなどしない。むしろ、
肉体に支配され続ける。それが生きるということだ。そんな動物の中で
ただ一種、人間だけが、特に肉体を超えようなどと、動物界を一人離れ、
自分だけが高く飛べるなどとバカなかんちがいをする。」

これを読んで思ったのは、このバカなかんちがいを、ひとりにぎりの
人間たちが、いよいよ激しくしはじめ、ますます高く飛ぼうとしはじめた時、
同類の人間たちは、その人間たちをもういちど地面にひきもどすために、
何をすればよいのか、ということで、この文章の文字を目で追いながら、
同時に思い出したのは、寺山修司のこのことばでした。

「どんな鳥だって想像力よりも高く飛ぶことはできないだろう」

で、これを思いだしたら、同時に答えがなんとなく見えました。
つまり、人間がバカなかんちがいをして、空を高く飛ぼうとしたときは、
それよりももっと高くとべる想像力でもって、それを制することだ、
というのがそれです。その想像力はアートのかたちをしててもよいし、
詩のかたちでも映画のかたちでもブログのかたちですらよくって、
とにかくそうしなければ、結局はまた暴力でもってそれを制する
ということになりかねいのだから、大急ぎで想像力をきたえ、
それを発揮する方法や場を探し出してゆかなければと、
そう思ったわけです。

そして、いま、もっとも至近距離で、その想像力をきたえてくれる
ことばは、次の組み合わせかな、と思ってます。

「動物を見よ。動物をよく見よ。ただの動物を。」(飴屋法水)
「動物になれ、動物どもになれ、動物になれ」(W・バロウズ)

……すると、、、やがて、、、、そこに、、、一匹の、、身人類が...
by illcommonz | 2005-10-07 20:45
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