![]() はじめに、ふた、ありき
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![]() ▼イルコモンズ「社会学特殊講義E」教材 「『君たちはどう生きるか』は、まさにその題名が示すように、第一義的には人間の生き方を問うた、つまり「人生読本」です。けれども、この一九三〇年代末のこの書物に展開されているのは、人生いかに生きるべきか、という倫理だけでなくて、社会科学的認識とは何か、という問題であり、むしろそうした社会的認識の問題ときりはなせないかたちで、人間のモラルが問われている点に、そのユニークさがあるように思われます。コペル君のごく身近に転がっているありふれた事物の観察とその経験から出発し、「ありふれた」ようにみえることが、いかにありふれた見聞の次元に属さない、複雑な社会関係とその法則の具象化であるか、ということを一段一段と十四歳の少年に得心させていくわけです。そういう目で、あらためてはじめの頁にかえって読みなおしてみますと、じかの観察から出発して、そこからいろいろな物事を関連づけ、その意味を探ってゆくという方法について、この書物では周到に布石が置かれていることに気がつきます。屋上からの大観察自体の中に、著者はいろいろな小観察を精巧な玉細工のようにちりばめます。自動車の流れを右左とかわしながら、懸命に小さな自転車のペダルをふむ少年と、その少年の動きを屋上から目で追っているコペル君は、見られるものと見るもの、との関係にあり、見られるものはそのことを意識しないが、見るものには分かっています。にもかかわらず、眼下の少年にたいしては、一方的にみる立場にあるコペル君自身も、眼前に林立するビルの無数の窓の中から見られていて、そのことが自分には分からないのかもしれないということに気づくという視座の転換の問題。つまりここにすでに、社会科学的な、そうしてすぐれて今日的な対象の分析と、主体・客体関係という認識論的な意味づけが分かちがたく結び合わされて、読者に提示されているわけです。おじさんは、天動説から地動説への転換という、誰でもよく知っているために、あまりにも当然としている事例を持ち出してきます。地動説はけっして一回限りの、過去の出来事として語られていません。それは、自分を中心とした世界像から、世界の中での自分の位置づけという考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、何度も繰り返される、またくりかえされなければならない切実な「ものの見方」の問題として提起されているのです。地動説への転換は、もうすんでしまって当たり前になった事実ではなくて、私たち一人ひとりが、不断にこれから努力していねばならないきわめて困難な課題なのです。そうでなかったら、どうして自分や、自分が同一化している集団や「くに」を中心に世の中がまわっているような認識から、文明国民でさえ、今日も容易に脱却できないでいるのでしょうか。つまり、世界の客観的な認識というのは、どこまでいっても、私たちの「主体」の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任と分かちがたく結び合わされている、ということ、その意味でまさしく私たちが「いかに生きるか」が問われているのだということを、著者はコペルニクスの学説に託して説こうとしたわけです。」(丸山真男『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」より) 「ヨーロッパではムッソリーニやヒットラーが政権をとって、ファシズムが諸国民の脅威となり、第二次世界大戦の危険は暗雲のように全世界を覆っていました。『日本少国民文庫』の刊行は、もちろん、このような時勢を考えて計画されたものでした。当時、軍国主義の勃興とともに、すでに言論や出版の自由は著しく制限され、労働運動や社会主義の運動は、凶暴といっていいほどの激しい弾圧を受けていました。そのなかで先生(山本有三)は、少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめてこの人々だけは、時勢の悪い影響から守りたいと思いたたれました。先生の考えでは、今日の少年少女こそ、次の時代を背負うべき大切な人たちである。この人々にこそ、まだ希望はある。だから、この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかして伝えておかなければならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない、というものでした。荒れ狂うファシズムのもとで、先生はヒューマニズムの精神をまもらねばならないと考え、その希望を次の時代にかけたのでした。」(吉野源三郎「作品について」より) 「この作品(ケストナー「飛ぶ教室」)には、吉野源三郎「君たちはどう生きるか」と同じようなものを感じました。時代が破局に向かっていくのを予感しつつ、それでも「少年たちよ」という感じで書かれたものだと思います。読み直してみると、いい話を書こうというだけではなくて、切羽詰ったものがその裏に潜んでいるような気がしました。」(宮崎駿「本へのとびら」より) 「生きることのきびしさは、お金をかせぐようになるとはじまるものではない。お金をかせぐことではじまって、それがなんとかなれば終わるものでもない。こんなわかりきったことをむきになって言いはるのは、みんなに人生を深刻に考えてほしいと思っているからではない。そんなことはぜったいにない。みんなを不安がらせようと思っているのではないんだ。ちがうんだ、みんなにはできるだけしあわせであったほしい。ちいさなおなかがいたくなるほど、笑ってほしい。ただ。ごまかさないでほしい、ごまかされないでほしいのだ。不運はしっかり目をひらいて見つめることを、学んでほしい。うまくいかないことがあっても、おたおたしないでほしい。しくじっても、しゅんとならないでほしい。へこたれないくれ、くじけない心をもってくれ。ボクシングでいえば、ガードをかたくしなければいけない。そしてパンチは、もちこたえられるものだってことを学ばなければならない。さもないと、人生がくらわす最初の一撃でグロッキーになってしまう。人生ときたら、まったくいやになるほどでっかいグローブをはめているからね。へこたれるな、くじけない心をもて、わかったかい。出だしさえしのげば、もう勝負は半分こっちのものだ。なぜなら、一発おみまいされてもおちついていられれば、あのふたつの性質、つまり、勇気とかしこさを発揮できるからだ。ぼくがこれから言うことをよくよく心にとめておいてほしい。かしこさをともないわない勇気は乱暴でしかないし、勇気をともなわないかしこさは、へのようのものなんだよ。世界の歴史には、賢くない人びとが勇気を持ち、かしこい人びとが臆病だった時代がいくらもあった。これはただしいことではなかった。勇気ある人びとがかしこく、かしこい人びとが勇気を持つようになってはじめて、人類も進歩したなと実感されるのだろう。なにを人類の進歩というか、これまではともにすると、誤解されてきたんだ。」(エーリッヒ・ケストナー「飛ぶ教室 まえがき その2」より) (参考) 特定秘密保護法案、集団的自衛権、改憲、「ナチスの手口に学べ」 発言、右傾化、レイシズム、オリンピック、原発事故、ショックドクトリン (関連) ▼イルコモンズ 「文化人類学解放講座B」 [第一講] 社会学的めまい:コペルニクス的転換 http://illcomm.exblog.jp/19709975/ ▼イルコモンズ「社会学特殊講義E」 [第一講] 社会学を/から学ぶこと:コペル社会学「人間分子の関係、網目の法則」 http://illcomm.exblog.jp/19705259/
by illcommonz
| 2013-09-30 22:48
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