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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼まるで、きのう生まれたばかりの子供のように
▼まるで、きのう生まれたばかりの子供のように_d0017381_18545839.jpgパンパンと手をうって花壇から
立ちあがった拍子に、思いっきり
「ガツン!」と頭をぶつけてましたね、
ゴダール。の「アワー・ミュージック」。
さすがに、こどもみたいに泣きべそは
かいてませんでしたけど、あのシーンは、
「すべてはわれわれの音楽である」という
予言がフィードバックしてくる瞬間で。
この煉獄の世界を生き・のびて、また、

「ガツン!」と世界に頭をぶつけることができた幸運とそのしあわせを告げていた。
不意の・あの一撃は(それは天国のオルガからのノックの音でもあったのですが)、
いつも唐突にやってきて/唐突に去ってゆく、ゴダールの映画音楽のなかでも、
もっとも鮮烈な、世界のサウンド・トラック(われわれの世界の音)でした。

無論そこだけでなく、はじめからおわりまでずっと。見ていてどぎまぎするくらい好い
映画でした。こないだ読んだ文章のなかで、E・サイードは、老齢を迎えた作家たちが、
ついにその晩年に至って、成熟と円熟を、和解と完成を身につけるなかで、そうした
「晩年に背をむける」、真の作家がいる、と書いてましたが、ゴダールはまさにそれで、
その実年齢と作品年齢のひらきは、ここにきてますます大きくなってきているようで、
「アワー・ミュージック」は、これまで見てきたゴダールの作品のなかで、最も若々しく、
処女作よりもずっとみずみずしいという、およそ「あり得ない」ような「奇跡」の映画に
仕上がってました。疲れた老人たちが「大きな物語はもうおわったのだ」と云う時代に、
ゴダールだけが疲れを知らないこどものように映画を撮りつづけ、おそらく、ちゃんと
話して聞かせてやれば、こどもにだってわかるくらいのベーシックなストーリーの
映画をつくっているというのは、それだけでもう十分に「奇跡」とよべるくらいの、
「あり得ない」出来事だと思いました。

で、ゴダールがするように、唐突に、ここでサイードのテキストを引用します。

「これこそが晩年のスタイルの特権ともいえるものだ。それは絶望とよろこびという、
その両者のあいだの矛盾を解消することなく、そのまま提示することができるのだ。
ものごとを、絶望とよろこびという、二つのものに等しく引き裂いてしまう力を、なんら
ゆるめることなく、ありのままつなぎとめておけることこそ、芸術家の成熟した主体の
なせるわざである。芸術家はいまや傲慢さとも尊大さとも縁を切り、そのあやまちを
恥ずることもなく、いわんや、老齢と追放の身の帰結として得られた確信めいたものを
なんら恥じることなく口にすることができるのだ」

「地獄」「煉獄」「天国」という誰にでもわかる三対の世界を、ほころびなく縫い合わせる
のではなく、矛盾にひきさかれたまま提示し、何ら恥じることなく自らを映画の中に
なげいれ、煉獄の花園で頭をぶつけながら、「すべてはわれわれの音楽なのだ」と
口にすることのできるゴダールのすごさ。かつて、このゴダールを「われわれの時代
の作家」と呼んだ世代がいました。すでに老齢を迎えたその世代が、この映画を見て
「なんともゴダールらしからぬ」などと口にしたときは、ぜひこう云ってあげましょう。

▼まるで、きのう生まれたばかりの子供のように_d0017381_19515246.jpg
「そのとおりです、これは「あなたたちの時代の作家」であったゴダールが撮ったもの
ではなく、すでに「われわれの時代の作家」になったゴダールが、われわれのために
撮ってくれた映画なのですから」と。

ということで、あとは断片的な感想と、観賞の手引きを書きとめておきます。

▼まるで、きのう生まれたばかりの子供のように_d0017381_21412823.jpgまず、第一部は、オルガがゴダールに贈った
ビデオクリップの手紙/遺書ではじまります。
「ヒトはお互いを夢中で殺しあってきた、まだ
ヒトが生きてるのが不思議なくらいだ」という
ナレーションのはいる、そのビデオは「映画史・
地獄篇」とでもいうべき凄惨なもので、これは
ゴダールが「映画史」を制作したときに「テレビ
では放映できないだろう」と判断して保留して
おいたストックフッテージを編集しなおして
つくったのではないかと思えるようなものです。
そのフィルムにあわせて何度も連打される
割れたピアノの音は、死者(とオルガ)を弔う
弔鐘のように聞こえます。


その途中に何度かフィルムが途切れて完全にブラックアウトするところがあります。
それは、ちょっと不思議な間合いで、ちょうど人が、「ふぅっ」と深いため息をついて
目をつむるくらいの長さなので、そこは小さな黙祷と細切れの瞑想のための時間の
ような感じがします。劇中の映画の講義でもゴダールは「目を開いて見よ、そして、
目を閉じよ」と云ってたので、それだと思います。つまり、あまりに強烈すぎて思考
や想像力を凍りつかせてしまうようなイメージのかたわらに、思考と想像をうながす、
「無の映像」をおいたのだろうと思います。なお、ここは映画館で見ると、その瞬間、
場内が暗転して完全に闇につつまれるので、DVDなどで見るときもできれば、
そういう環境で見たほうががよいと思いました。

次に、ひとつとんで、最後の第三部ですが、この「極楽篇」が、「ゴダールらしからぬ」
といわれかねないところなのでしょうが、よく見れば、いかにもゴダールらしい設計と
引用が施された「象徴の森」の天国になってます。まずそこへの「移行」の仕方から
して通常のそれとはちがいます。劇中の会話の中に「彼女は自分が落ちてゆく感覚
はなかった。それとは反対に地面がものすごい速度で近づいてくるように感じた」と
いうG・グリーンの小説の引用がありましたが、そのようにゴダールの天国への移行は、
人が空にのぼってゆくのではなく、地から天国が沸いてくるようなしかけになってました。
昔からよくモーツアルトの曲ががはじまると劇場の天蓋から天使たちが舞い降りてくる
などといいますが、この映画ではまず、劇場の下の方から小川のせせらぎの音が
あふれてきて、そこに弦楽がオーバーダビングし、やがて劇場が小川の中にすっぽり
飲み込まれるという、そういう綿密に組み立てられた音響設計になってました。これは、
5.1サウウンドのホームシアターの設備でもない限り、家では体験できないものなので、
そういう恵まれた環境にない方は、劇場で見ることをお勧めします。

また、天国にみたてられたこの森の入口には、銃を構えた白人のアメリカ海兵隊員が
門番をしていて、そこで目に見えないイミグレーション・スタンプのようなものを、あまり
おもしろくなさそうな顔で押す仕事をしてします。こんな風に「現代の天国」はアメリカが
管理していて、しかも銃や移民スタンプまであるというところがゴダールらしいのですが、
でも、よく見ると、その森の奥では、黒人の海兵隊員が銃から手を放して小川に釣り糸
をたれているのが見え、これはアメリカの黒人霊歌「小川のほとり」を思わせるものです。

▼まるで、きのう生まれたばかりの子供のように_d0017381_23134568.jpg
 武器をすてて、小川のほとり、小川のほとり、小川のほとり。
 花束つくろう、小川のほとり、戦争はもうやめだ。
 戦争はまっぴらだ。もうやめだ。戦争はもうやめだ。

と同時に、この森は、デジャ・ヴの感覚をよびおこすもので、そこは「ウィークエンド」に
でてくるビートニクスの解放ゲリラたちのキャンプの森を思わせるところもあって、一瞬、
もしや、と思うのですが、そこにはもう、トーテムとタブーの肉屋も革命のラジオ放送も
銃撃戦もなく、あるのは、ダンスとゲームとリンゴとペーパーバックです。たださすがに
それだけでは少しばかり物足りないので、他はさておき、「ウィークエンド」の白眉とも
いえる、生ドラムのブレイクビートをバックにしたヒップホップなポエトリーリーディング
だけは、あってくれてもいいかなと思いました。なにしろ「われわれの音楽」という名の
映画なのだし、次の「ウィークエンド」の詩にあるように、この映画のエンドマークの後、
観客は映画の中の天国からまた現実の煉獄のなかにもどって、地獄のそばでの
地上の暮らしがあるのですから。

 老いたる海よ、おれはおまえに敬礼する。
 だから、こたえてくれ、老いたる海よ。
 おまえは暗黒の王子の棲家なのか?
 老いたる海よ、云ってくれ、老いたる海よ。
 おれはおまえにこたえてもらわねばならないのだ。
 なぜなら、そうすれば、おれは、地獄が人間の
 すぐそばにあることを知って、快哉を叫ぶからだ。
 おれは、あともう一度だけ、おまえに敬礼し、
 それを、最後の別れの挨拶にしよう。
 老いたる海よ、おれには、もう続けてゆく力がない。
 なぜなら、おれは、ケモノのような顔をした
 人間どものところにもどる時がきたことを知ったからだ。
 だが、勇気をだし、力をふりしぼり、やるべきことをなし、
 この地上におけるわれわれの運命をまっとうすることにしよう。
 さらば、老いたる海よ。

そして、ぜひこの詩は、ソウル・ウィリアムズに朗読してもらいたいものです。
詩といえば、この映画のたくさんあるカギのうちのひとつは詩で、第二部で、
それをみることができます。

▼まるで、きのう生まれたばかりの子供のように_d0017381_1104335.jpgこの映画でゴダールは、かつて
「ヒア&ゼア」の中でそのテキスト
(「私は抵抗する」)を引用した
パレスチナの詩人マフムード・
ダルウィーシュを映画のなかに
迎えいれ、ダルウィーシュに
詩について自由に語らせています。

 私は公認されなかった民族のこどもだからこそ、不在の名において
 語りたかったのです。(戦に負けた)トロイの詩人として、勝利よりも
 敗北のなかにこそ多くの示唆と人間性が存在します................
 喪失のなかにこそ偉大な詩が生まれるのです.......................
 ....................詩をもたない民族はうちまかされた民族なのです。

そして、この映画では、他者の詩を理解しないときに悲劇が起こる、ということが、
第二部のものがたりの重要なカギになっています。つまり、「イスラエルの人が
平和のために一緒に死んでくれたらうれしいのに」というオルガの詩のことばを、
誰も詩として理解できずにテロルのことばとして聞き違えたとき、そしてカバンの
なかから、おそらくは何か詩の本をとりだそうとしたオルガの仕種を、まちがって、
それとは反対の、テロルのショットと混同したときに、悲劇が起きたわけです。
ゴダールが劇中の講義のなかで「似かよっているから厄介なのだ」とイメージの
あやうさについて述べ、イメージが転倒することやショットがひっくりかえることに
気をつけろ、と警告を発してただけに、なおさらのことそれは悲劇なわけです。

ところで、この映画の劇中の講義のなかでゴダールは、そうしたイメージの
転びやすさを教えるために、構図の似たスチル写真を次々に繰って見せるの
ですが、この対位法は「ヒア&ゼア」という映画のつくりを思わせるものです。
その映画で、決して等価ではなく、また対称的でもない、ヒアとゼア、こことよそ、
こちらとむこうとして対位法的に提示されたのは、下のようなイメージによって
表象される人びとの映像と声でした。

▼まるで、きのう生まれたばかりの子供のように_d0017381_0285773.jpg
そこでパレスチナの少女が朗読していたのが、ダルウィーシュの詩で、
この「アワー・ミュージック」は、一見すると「ゴダールらしからぬ」映画のように
見えて、実はむしろ反対に、過去のゴダールの最も過激な映画や政治的な
映画と強いつながりをキープしてるように思えました。また、殉教ということと
「裁かるるジャンヌ」のイメージを手がかりにして「男と女のいる舗道」と、さらに
「弟が生まれたよ」ということばを手がかりにして「ゴダールのマリア」と、さらに、
サラエボという場から「フォエバー・モーツアルト」という具合に、いくらでも他の
映画をつなげてみることのできる、他の映画に対してひらかれた、そういう意味
でも非常にゴダールらしい映画なので、ぜひ、こうした過去の作品とあわせて
見られることをお勧めします。

最後に、オルガがいつも持ち歩いてた赤いカバンの中からとりだそうとしたのが
何であったかは、この映画では明らかにされてませんでしたが、「勝手に見やがれ」
というのが、ゴダール映画のただしい見方なので、ひとつここで勝手な空想をすると、
オルガが赤いカバンからとりだそうとしたのは、詩の本ではなかったのか。そして、
それはダルウィーシュの次の詩が載ってる本ではなかったのか。とそんなふうに、
イルコモンズは見ました。というのも、オルガの最後のことばになった「イスラエルの
人が平和のために一緒に死んでくれたらうれしいのに」という構文は、どこかその
詩のそれと響きあうように思えるからです。参考に、このコラムの最初の方でふれた
サイードが「最後の空つきて」という本の中で紹介し、タイトルにしていた、
ダルウィーシュの、その詩をここに書き写しておきます。
................................................................................

 「世界がだんだんせまくなってゆく」
 (原詩:マフムード・ダルウィーシュ  訳詩:イルコモンズ)

 世界がすみっこの方からだんだんとじてきて
 僕らをいよいよ最後の道に追いつめてゆく
 僕らはなんとかしてそこを通りすぎようと
 自分の手や足までそぎ落としたというのに
 それでもなお大地は僕らを押しつぶそうとする

 いっそのこと僕らが麦だったらよかったのに
 そしたら死んでもまた生き返ることができるから
 でなければ、大地が母さんだったらよかったのに
 そしたらきっとやさしくしてくれるだろうから
 あるいは僕らは石に描かれた絵だったらよかったのか
 そしたら鏡に映して夢のなかに運ばれてゆくから

 僕らは見た、最後に残された土地の窓から
 子どもたちを外にほうりなげる者たちの顔を
 僕らの星はその顔に鏡をつきつけるだろう

 僕らが世界の果てにたどりついたとき
 僕らはその先どこへ行けばよいのだろう?
 そして最後の空がつきはてたとき
 鳥たちはどこを飛べばよいのだろう?
 草木が最後の息を吐ききったとき
 どこで眠りにつけばよいのだろう?

 僕らはそのわずかな赤い果汁で
 自分たちの名前を記すだろう
 僕らの果肉が歌う唄をききながら
 自分の枝をもぎおとし、そして、
 ついに息絶えるだろう

 この最後に残された道のうえで
 そう、ここで、この土地で、
 僕らが流した血は、やがて
 オリーブの樹となるだろう

▼まるで、きのう生まれたばかりの子供のように_d0017381_1152461.jpg
で、最後に、これから「アワー・ミュージック」を見に行かれる方に、おねがいなのですが、
第三部の天国の森に、オリーブの樹があるかどうか、もし見分けがつく方がいらしたら、
ぜひ、その有無をイルコモンズまでお知らせください。

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▼まるで、きのう生まれたばかりの子供のように_d0017381_1221483.jpg[追記1] そういえば、初日の日に見に行ったら、
記念品にこんなかわいいハープをもらいました。
ただ、このハモニカと映画にどんなつながりがあるのか?
そしてキーがCなのはどうしてなのか?とずいぶん
考えてみましたが、結局、いまだに謎のままです。

[追記2]でも、HOHNERのハープなので、ベントすると、ブルージーないい音がします。
いまも、横で、ちびこもんずがプカプカ吹いてます。

[追記3] そうそう、この予告編、本編を見た後に見ても、本当によくできてるな、と
思いました。実はここに書いた「すべてはわれわれの音楽である」という読みは、
この予告編のそれに強くインスパイアされた積極的誤読で、本編ではもうすこし
限定的な意味で使われてます(「映画の原理とは光に向かい、その光で私たちの
闇を照らすこと、私たちの音楽」)。とはいえ、作者に逆らって、テキストを逆撫で
するように読むのが、いまどきの批評のABCなので、「まぁ、それでもいいか」と
思ってます。ちなみにプログラムには、シナリオ全文が注釈つきで載ってるので、
お薦めです。あと劇中の音楽は、D・ダーリングあたりのECM音源がほとんど
のようなので、それをまとめたOSTかコンピアルバムが出たら、ぜひ手に入れ
たいところです。それと「ヒア&ゼア」もDVDリリースされるようです。本当は、
4枚セットのものがほしいところですが、家計的にムリなので「ヒア&ゼア」だけ
でも単品でなんとか手に入れるために、これからがんばって内職します。

[追記4] いま、公式サイトに掲載されてる菊池成孔+青山真治の「爆裂対談」
読んでいたら、そこにこんなやりとりがありました。

 青山:僕もやっぱり80年代の頭くらいですかね。僕は地方出身者なので、
     たまたま博多でもやってまして。
 菊地:博多でもやってましたか。
 青山:やってたんですよ。テアトル西新っていう映画館で。いまもあるのかなあ。

実は、福岡出身のイルコモンズも、80年代のあたまからおしりにかけて、その
同じ映画館の同じプログラムでゴダールを見たのでした。ちなみにその映画館は、
もうありません。
by illcommonz | 2005-10-16 19:19
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