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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼「メディアと芸術」オンライン・テキスト3
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「新しい電子テクノロジーがもたらした相互依存関係が、地球全体をひとつのムラに再創造させる」(マーシャル・マクルーハン「メディアはマッサージである」1964年)

→グローバル・ヴィレッジ

[ヴィレッジの住民たちの証言]

「スタジオミュージシャンとして一生やっていくんだと思っていた僕の人生は、パソコンを購入して1年足らずで大きく変わりました。パソコンがなかったら僕は文筆家になることも、大学で教えることもなかったでしょう。でも、すごく矛盾しているかもしれないけれど、僕はパソコンを礼賛しているわけではない。むしろその逆です。パソコンやインターネットは麻薬や覚醒剤と同じくらい恐ろしく害のあるものだと思っているんです。気づかない人が多いようだけど、パソコンが普及してから、人々の心性は大きく変わりました。パソコンはすべての人を批評家にします。何かにっけてケチをつけ、批判し、検討を重ねさせる。消費者は商品に堂々とクレームをつけ、権利を主張するようになりました。たとえば、生意気なアイドルがいたら、ネットで袋だたきして引退に追い込むことだってできる。パソコンの前に座っているだけで、世界中の情報が手に入るので、この世を征服したような万能感がみなぎるけれど、実際は違う。万能感が無力感に変わった時、それを修正するために、「世の中を破壊してやる」、「誰でもいいから殺してやる」という発想に向かう人だっているんです。ブログで今日食べたものを写真ごとアップしなければ眠れない人が大勢いる。「ホントはヒレかつを食べたいんだけど、前回アップしちゃったので今日はロースを食べてアップします」なんて、どう考えてもおかしいですよね。ネットで"つながっている感"があるなんていうけれど、そんなのウソ。白己愛と他者承認をブログで毎日確認する社会ってどうなんでしょう。パソコンの恩恵を散々受けておいて、"裏切り者め"と言われるかもしれない。でも僕はパソコンのもつ万能感が恐ろしい。誰もそのことを認めないけれど、パソコンとインターネットが普及して、世の中がガラッと変わりました。みなさんはどう変わりましたか?」(菊池成孔)

「ところで、携帯電話がもたらした功罪は何だと思う?コミュニケーションが希薄になったとか、マナーが悪化したとかいった類の携帯批判はナンセンス。これらは新しいテクノロジーが出てきた時に必ず現れる、本能的な防衛反応のひとつにすぎないように見える。それよりももっと、重要な変化が起きている。携帯はひとを傷つける新しい道具としてはたらいている。知らず知らずの内に。たとえば、歯医者の待合室で待っている時、おれの他に同い年くらいのカジュアルなかっこうの女の子が待っていたとする。当然、意識しあう。気まずい。どうしたものか。壁のポスターに目を移すか、置いてある雑誌に手を伸ばすか。緊張にあふれる待合室。その時。「カチャッ」。その子は携帯の画面を開き、のぞき込んだ。何が起きたのだろうか? 見たくもないポスターを凝視したり、読みたくもない雑誌に手を伸ばすのと、携帯の画面をながめるのと何が違うのか。大きく違う。その子が携帯の画面をながめることによって、おれは「はずされた」のだ。彼女はおれではない誰かとの親密なあいだがらの間に入り込み、おれは部外者になった。携帯をながめるのは自分の「仲間」を確認することであり、同時に、時間無制限で発揮される仲間への高い信頼とひきかえに、仲間以外の人間への無関心を表現する。彼女はいつでも彼女を待っているであろう仲間のもとに携帯を通じて駆け寄ることで、おれに対して、「わたしはあんたのことは意識していないよ」という無関心をあらわしてみせた。そして、待合室で待っている「おれたち」という接近した関係は崩壊。注意しよう。このような「仲間はずれ」は、ポスターを凝視したり雑誌を読み始める場合には起こらないということに。つまり、携帯は「仲間はずれ」というかたちで他人への「無関心をひっそりと表現する新しい手段」なのだ。仕事の休憩時間や学校の休み時間、席を立つか立たないかのその瞬間、誰もが携帯を取り出し、のぞき込む。いつでもどこでも帰れる居場所としての「仲間」と連帯しているという実感の確実さを携帯という道具に託しながら、他方で、同じ部屋に居る同僚をひそかに「仲間はずれ」にする。知らず知らずの内に、無垢な笑顔のなかに、そんな傷つけ合いがある。いたるところで、そんな場面によって、誰もがきっと少しずつ傷ついている。ただ、そんなみじめな自分を認めたくなくて、小さなことになんてまるで気にしない「デカいこころ」をもっているふりをしているだけ。ポーカーフェイスの見せ付けあいで辛うじて保たれる「自己」。そしてまた、大事な「仲間」のいる携帯の中に入り込み、同じ部屋に居る周りの人間を「風景」にする。他人との接触を避けて目をそらしあうのは、しかし、他人を過剰に意識しているからという逆接があるのは誰の目にも明らか。電車の中で知らんぷりを続けている最中、独り言を言う酔っ払いが入ってきたり、いがみあいなどが起きた時、そんな、他人の存在が特に際立ってくる時にこそ、ますますぎこちなく目を反らし合うのはその証拠。そこでの問題は、酔っ払いやいがみ合いをしている人達が恐いということではない。そうではなく、このような例外状況に下手に反応して、自分がヘマをしないこと、自分が都合の悪い状況に陥るのを防ぐこと。最初から知らないふりをしていれば(知らないわけがないことは自分が一番よくわかっているのに)、失敗することもないのだから。自分を安全圏の中で確信する為に他人への無関心を見せつけるという
ニホンジンのこの強い傾向。これが携帯によってさらに強化されているように見える。目を反らすのに疲れたならば、携帯をのぞきこめさえすればいいのだ。(waterr「無関心・猥雑さ・けなし合いの共同体―ニホンジンをながめてみると」)

「わたしたちは、新しいメディアのなかに、古いもののかたちをおしこめる。この悪い習慣はなかなかなおらない」(マーシャル・マクルーハン「メディアはマッサージである」1964年)

「あなたは今日からiPhoneの所有権を持つことができます。責任感のある利口な13歳なので、このプレゼントはあなたに相応しいものです。でも、このプレゼントと受けとると同時にルールや規則が付いてきます。以下の使用契約をゆっくり読んでください。私の親としての仕事も分かって欲しいのです。健康で豊かな人間性を持ち、現代のテクノロジーをうまく活用していける大人に、あなたを育てなければならないのです。以下の規則を守ることができなかった場合、あなたのiPhoneノ所有権も無くなります。あなたが大好きでたまりません。あなたと何百万ものメッセージ交換をするのが楽しみです。

⑦このテクノロジーを使って嘘をついたり、人を馬鹿にしたりしないこと。人を傷つけるような会話に参加しないこと。人のためになることを第一に考え、喧嘩に参加しないこと。
⑧人に面と向かって言えないようなことをこの携帯を使ってSMSやメールでしないこと。
⑨友達の親の前で言えないようなことをSMSやメールでしないこと。自己規制してください。
 この条件ニ合意してくれることを願っています。ここでリストにあげた、ほとんどの条件は、人生をうまく生きるための条件にもそのままあてはまるものです。あなたは常に激しく変わってゆく世の中で成長しています。とてもエキサイティングで、興味深い体験だと思います。できるだけシンプルに物事を考えて実行してください。どんな機械やガジェットよりも、自分のパワフルな考え方と大きな心を信じてください。あなたが大好きです。あなたの素晴らしいiPhoneを楽しんでください。母より。」(「13歳の息子へ、新しいiPhoneと使用契約書です。愛を込めて。母より」

[金融テクノロジー]


イルコモンズ「マネーカッツィ」(2009年)

「パパラギとは白人のこと、見知らぬ人のこと。まるい金属と重たい神、彼らがお金とよんでいるもの、これが彼らの神だ。すべてのパパラギは、寝ているあいだも、お金のことを考えている。まるい金属と重たい紙。パパラギの国ではお金なしに生きていけない。お金がなければ、飢えも渇きもしずめることはできない。「働け、そうすればお金がもらえる」というのがヨーロッパのおきてである。このおきてには不公平がある。お金をたくさん持っている人が、かならずしもたくさん働くわけではない、ということだ。それはこういうふうにして起こる。もしひとりのパパラギが、たくさんお金をもうけたとする。たべものや小屋を手にいれても、まだ余るとする。すると彼はそのお金で、彼の兄弟たちをはたらかせる。自分の手がよごれる仕事、苦しい仕事を兄弟にさせる。人びとはこの人のことを「お金持ち」と呼ぶ。みんなは彼をうらやみ、お世辞をのべたてる。つまりパパラギの世界で、ひとりの人間の重さを量るのは、精神の気高さでもなく、勇気でもなく、心もかがやきでもなく、一日にどのくらいたくさんのお金をつくり、どのくらいたくさんのお金を頑丈な鉄の箱にしまっているかなのである。彼らはそのお金をしっかり守られた場所に運びこむ。すると、お金そのものが、彼らのために働いてくれるのだ。魔法でもないのに、どうしてそんなことができるのか、私にはどうしてもわからない。けれども本当にそうなのだ。たとえ眠っていても、この人はますますお金持ちになる。もしこの人に「そんなにたくさんのお金をどうするんですか。着たり、飢えや渇きをしずめるほか。この世であなたに何ができますか」と尋ねたとする。しかし、答えはない。あるいは彼はこう言うかもしれない。「もっとお金がほしいのだ。もっともっともっとたくさん」。やがておまえにも分かるだろう。お金が彼を病気にしたことが、彼がお金にとり憑かれていることが。「富、つまりお金をたくさんもっていることが幸福のもとである」とパパラギはいう。また「たくさんの富を持つ国、それはもっとも幸せな国ある」とも。わが兄弟たちよ、わたしたちはみな貧しい。太陽の下、私たちの国ほど貧しい国はない。私たちのところには、箱いっぱいのまるい金属もなければ、重たい紙もない。パパラギの考えからいえば、私たちはみじめな物乞いなのだ。しかし、おまえたちの目を金持ちの紳士の目と比べるなら、彼らの目はかすみ、しぼみ、疲れているが、おまえたちの目は、大いなる光のように輝いている。よろこびに、力に、いのちに、そして、健康にあふれ、輝いている。おまえたちの目は、パパラギの国では子どもだけしか持っていない。もてなしをしたから、といって何かを要求したり、何かをしてやったから、といってアローファ(交換品)をほしがるような人間を、私たちは軽蔑する、という尊いならわしを、私たちは大切にしよう。ひとりの人間が、他の人たちよりずっとたくさんの物を持つとか、ひとりがたくさん持っていて、他の人は無一物、というようなことを私たちは許さない。そのならわしを大切にしよう。そうすれば私たちは、隣人が不幸を嘆いているのに、それでも幸せで、ほがらかにしていられる、あのパパラギのような心にならずにすむ。私たちはお金から身をまもろう。私はおまえたちに告げよう。お金で人はたのしくなったり、しあわせになったりすることはない。それどころか、人のこころを、人間のすべてを、悪しきいざこざのなかへ引き込んでしまうということを。そしてお金は、ひとりの人間をも救うことはできない。ひとりも人間をも、たのしく、強く、幸せにすることはできないのだと。」

「世界の存在を信じることが、実は私たちに最も欠けていることなのです。私たちは完全に世界を見失ってしまいました。私たちは世界を奪われてしまったのです。世界の存在を信じる、というのは、どんなにささいなことでもかまわないので、とにかく管理の手を逃れる「出来事」をおこすことです。あるいは、どんなに面積や体積が小さくてもかまわないので、とにかく新しい「空間」を生みだすことです。私たちの抵抗の力はどれくらいのものなのか、あるいは逆に、管理に服従するとはどういうことかは、具体的な行動のレヴェルで判断されます。創造と人民が同時に必要なのです。」(ジル・ドゥルーズ)

「シチュアシオニストは、現代の「スペクタクル」についてくりかえし論じてきた。このスペクタクルには、広告看板から、アート、サッカー、ラジオ、テレビまであらゆるものががふくまれる。かつては誰もが自分で直接体験してきたことが、いまは別の誰かによるショーになってしまっている。生きた体験は、メディアがつくるイベントやあらかじめパッケージ化された経験にとってかわられてしまっている。シチュアシオニストは「人さらい」という言葉をつかい、スペクタクルが僕らの「リアルな生」をどこかに連れ去ってしまっているのだという。」(カレ・ラスン「カルチャージャム」)

「世界にはさまざまな問題があり、遠い国で内戦があり、飢餓があり、苦しみがあることを私たちは知っていますが、私という小さな存在が、いったいそのような広大な社会とどのように関われるだろうか?と思わず立ち止まってしまうかも知れません。しかし、社会は私たちひとりひとりのこの小さな現実と無関係に、どこか別の場所にあるのではありません。」(諏訪敦彦「式辞」2013年)

[原子力テクノロジー]

ディズニー「魔法使いの弟子」(1940年)

「みなさんは「魔法使いの弟子」という古い寓話をご存知でしょうか。今日でもディズニーのアニメーションになりました。ぬけめのない弟子は、老いた魔法使いがでかけたときに、主人の呪文をくりかえして、バケツやほうきに、自分の仕事をやらせてなまけていました。ところがまずいことに、自動エネルギーで疲れを知らずに仕事をするバケツやほうきの大群をうみだす術は知っていたのですが、その働きをおしまいにする呪文をマスターしていなかったので、自動のバケツが主人の家にぶちまける大量の水のなかで、あっぷあっぷともがくことになったのです。これは「魔法使いの弟子」は、写真から美術作品の複製、自動車から原子爆弾にいたる私たちのあらゆる活動にあてはまります。それはまるでブレーキもハンドルもなく、アクセルしかついてない自動車を発明したようなもので、唯一の操作方法は、機械を速く働かせることなのです。しばらくのあいだは、まっすぐの道なら安全だと思い、スピードが増すにつれて輝かしい解放感すら覚えるでしょうが、やがて減速したり、方向を変えたり、バックしようと思った時には、コントロールの準備がなにもないということがわかり、唯一の可能性は、「もっと速く、もっと速く」しかないことに気付くでしょう。もうお分かりにように、機械は大量の消費と破壊を目的とする戦争においてこそ存分に、効果的に稼働するものなのです」(ルイス・マンフォード「芸術と技術」1952年)


ディズニー「わが友、原子力」(1954年)

「福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?理由は簡単です。「効率」です。原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。」(村上春樹)

「1:高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
2:可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
3:充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。」(ウィキペディア「クラークの三法則」

「魔法はかならず解ける」(岡崎京子「ヘルタースケルター」)

「夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしヒューマニティは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。」(村上春樹)
 「やりたくないことは無理にやることはない。自分にできないことは他人に任せておけばいい。小さい頃から私はそう考えていました。自分の好きなことをやる。そのために人は生まれてきたのだと私は思っています。やりがいだとか、充実感といった言葉をよく耳にしますが、結局は自分が好きなことにしか、そういうものは見つからないような気がします。やりたいことが見つからないと言う人がいますが、まずは自分が好きなことは何かを考えること。小さい頃に熱中したものを思い出すんです。ただし、好きだからといって成功するわけじゃない。いくら情熱を傾けて努力をしても報われない人はたくさんいます。努力は人を裏切るということも知っておくことです。それでも、好きなことに情熱を傾けている問は、きっと幸せの空気が漂っているものです。私は自分が幸福だと思っています。好きなことに情熱を注いで、人生を生き切ること。うまくいく時もあれば、うまくいかない時もある。そんな時に、あたふたと騒がないほうがいい。幸福だの不幸だのといちいち口に出さないほうがいい。人生にはいろんなことが起こって当たり前。それらに一喜一憂するのではなく、放っておくことです。人生をへたにいじくりまわしたところで、何の解決にもなりません。起きてしまった不幸はもうどうしようなもない。ならば自然の流れに身を委ねてしまったほうがいい。しょせん人問の力ではどうしようもないこともあるものです。ラバウルの人たちは実にわかりやすい人生を送っています。神様から与えられた人生を決していじくり回したりしません。だから、幸せの空気に包まれているのでしょう。」(水木しげる「人生を、いじくり回してはいけない」2005年)
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by illcommonz | 2014-02-09 15:01
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