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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼映画「オキュパイ・ラブ」とエーリッヒ・フロム
▼映画「オキュパイ・ラブ」とエーリッヒ・フロム_d0017381_20484752.jpg
「愛は行動すること」(ヴェルクロウ・リッパー「オキュパイラブ」2012年)

「愛は活動すること」(エーリッヒ・フロム「愛するということ」1956年)

A:愛と行動
 「愛は活動である。もし私が何かを愛しているとするなら、それは彼や彼女に限らず、愛するものたちに対して、絶えることのない積極的な関心を持ち続けている状態にあるということである。なぜなら、もし私が、つねに目覚めていて、注意を怠らず、活動している状態でなく、怠惰であれば、私は自分自身を、愛するものに積極的に関係させることができないからである。目覚めている状態とは、倦怠が占める場所がないということである。今日の多くの人たちが置かれている矛盾した状態とは、起きながら眠っていることである。はっきりと完全に目覚めていることは、倦み疲れさせられず、倦み疲れないための条件で、それが愛することの条件のひとつでもある。世界に対して絶えず自分の目と耳を動かしていること、考えることと、感じることに積極的であるということは、愛の実践に不可欠な条件である。」(エーリッヒ・フロム「愛の理論」ほかより抜粋)


▼「スペインの革命」

 「愛するということは、なんの保証もないのに、行動を起こすことであり、こちらが愛せば、きっと相手の心にも愛が生まれるという希望に、全面的に自分をゆだねることである。したがって、愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛することができない。この愛の習得に不可欠な姿勢は能動性であり、愛とは能動である。能動性とは、自分の力を生産的に用いることで、愛とは、人が世界全体に対して、どう関わるかを決める態度と、その意志の向けかたのことである。」(同上)


▼「オキュパイムーヴメント あなたの顔をみせて」

 「愛の基本となる要素「尊敬であり、尊敬とは人間のありままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。」(同上)

 「愛は何よりも与えることであり、受け取ることではない。たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。自分が独立していなければ、人を尊敬することはできない。自由であってはじめて人を尊敬できる。愛は自由の子であり、けっして支配の子ではない。」(同上)

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B:愛と資本主義

▼映画「オキュパイ・ラブ」とエーリッヒ・フロム_d0017381_20501537.jpg
▼「岡崎京子サンプリング/愛と資本主義のフォークロア
 「近代の資本主義が必要としている人間は、なんの抵抗も感じず、大勢の人間と一丸となって、働く人間である。また、より多く消費したいと思う人であり、趣味が画一化され、すぐに影響され、予想どおりに動く人たちが好ましい人間とされるのである。彼らは、権威や主義や良心にしたがっているのではなく、そうしたものから自由であり独立していると思いこんでいるが、実のところ、よろこんで命令され、期待されていることをおこない、なんの抵抗もなしに、社会の機構に順応している、そういう人間を資本主義は必要としている。その結果はどういうことになるだろう。近代の人間は彼自身から、そのなかまから、そして自然から疎外されることになる。彼は自らすすんで商品化され、自分の生命を、現在のマーケットのなかで利益をもたらす投資対象として体験している。そこでの人間どうし関係は、疎外された自動機械どうしの関係となり、そこでは、思想も行為も感覚もほかの人たちとちがわないことが、その関係の基礎となる。

▼映画「オキュパイ・ラブ」とエーリッヒ・フロム_d0017381_20532099.png
▼「孤独からの逃避ためのテクノロジー」

 誰もかれも、できるだけ他の人間と親密になろうと試みるが、すべての人間は孤独なままにとどまり、人間が分離されているときに生まれる不確実さ、不安、罪悪感に満たされている。現代文明は、人びとがこの孤独に気づいたり覚醒させないために、多くの緩衝装置を備えている。今日の人間の幸福は、「手のなかに楽しみがある」ということである。たのしみとは消費の満足であり、商品や見世物や食べ物や飲み物やタバコや人間や講義や本や映画などが手に入ることである。すべてのものは消費され、のみこまれてしまう。われわれの性格も、交換と需要のために、物々交換と消費のために蓄財されている。物質的なものはもちろん、精神的な対象もすべて交換と消費の対象となる。近代の人間は、自分自身を商品を変えたのである。彼は自分の生命を、パーソナリティの市場における自分の位置とか状況を考慮して、最高の利益を生むような投資対象とし経験する。彼の目的は、そのパーソナリティを、他の人と有利に交換することである。当然、愛に関しても状況は同じである。自動人形はけっして愛することをしない。彼らは、人間商品である自らの「人格のパッケージ」を互いに交換し、できるだけ公正な契約を交わすだけである。こうした疎外された構造を持った愛である結婚の、もっとも重要な表現のひとつは「チーム」という考え方で、そこで強調されているのは、耐え難い孤独からの避難所をつくるということにすぎない。愛とはいうが、単に人は孤独からの非難所をそこに見出しているにすぎない。世界に対して二人の同盟をつくるということだが、そこでは二人の人間のエゴイズムが、愛や親密さと勘違いされている。「チームワーク」としての愛、そして、孤独からの避難所としての愛は、近代西欧社会における愛の崩壊、社会的に形成された愛の病理のかたちである。」(エーリッヒ・フロム「愛と現代西欧社会におけるその崩壊」ほかより抜粋)

 資本主義は愛を占拠する。「オキュパイ・ラブ」という映画が資本主義とのたたかいを描くのは、そのためである。

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▼映画「エーリッヒ・フロム」予告編 (2012年)

C:愛の能力と社会改革
 「西洋文明の社会構造とそこから生まれた精神は、愛の発達を促すものではない。現代の社会が必要としている人間は、多数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて外からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令には進んでしたがい、期待にそうように行動し、摩擦を起こすことなく、社会という機械に自分をはめこむような人間、命令に黙々と従って働く人間である。その結果、現代人は、自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。誰もが孤独で、孤独を克服できないときに、かならずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。それに対し、自分ひとりでいられるということ、これは愛する能力の条件である。もし私が自分自身の力で立っていることができないからという理由で、他の人に愛情を持つというのであれば、彼あるいは彼女は、人命救助者ではあっても、そのふたりの関係は愛による関係ではない。逆説的ではあるが、ひとりでいられるという能力が、愛する能力を持つことの条件なのである。わたしたちは私たち自身を信頼している。わたしたちは、たとえ環境が変わっても、変わることのない自己の存在を信じている。たとえ意見や感情に変化があっても、生涯を通じて持続する私たちのパーソナリティの中核の存在を知っている。自分自身を信頼する人のみが、他の人に対しても誠実でありうる。なぜなら、そのような人だけが、未来においても自分は今と同じであると確信できるのであり、自分自身を信頼するということは約束という能力の条件である。愛に関していえば、自分自身の愛を信頼することは、他者のなかに愛を生じさせる能力への信頼である。他者を信頼するということは、他者が持つ潜在能力に対する信頼である。他者に対する信頼は、人類への信頼にいたる。その信頼は、人間の潜在能力というものは、それぞれに適した条件さえ与えられれば、平等と正義と愛の原則にしたがった社会を築くことができるという考えに基づいている。わたしたちは、自分の潜在能力の成長、自分自身の成長、そして、わたしたちの理性と愛の力の強さを、どの程度、経験したかによって、他者の潜在能力と人類の潜在能力を信頼することができる。この信念を持つには、勇気、危険をおかす能力、苦痛や期待はずれに耐える覚悟が必要である。生活の安泰と無事だけを主張する人は、こうした信念を持つことはできない。愛されること、愛することには、ある価値を最上のものとして受け入れ、その価値にむかって跳躍し、すべてをその価値にかける勇気が必要なのである。こうした愛は、現代の社会においては限られたものである。その理由は、多くの仕事が愛という態度をゆるさないばかりか、商品に飢えている社会は、愛に同調しない者だけが成功を収めるような社会だからである。したがって、愛に真剣にとりくむ人びとは、愛が個人的な現象でなくなるようにするためには、私たちが住む社会構造に、大きなそして徹底的な変革を起こさなければならないという結論に達するにちがいない。」(エーリッヒ・フロム「愛の実践」ほかより抜粋)

 DIY、アウトノミア、アクティヴィズムは、愛の能力の鍛錬であり、実践である。

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いるといら(イルコモンズ&IRA)主催 映画「OCCUPY LOVE」上映会
l[日時] 2014年2月22日 19:00開場/19:30上映開始
[場所] IRREGULAR RHYTHM ASYLUM (新宿区新宿1-30-12-302)
[入場料] 500円+カンパ
[トーク] いるといら
[フード] Loca☆Kitchen
by illcommonz | 2014-02-21 21:34
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