1937年、ドイツでナチスが台頭していた時代、フランスに留学中だった岡本太郎は、思想家ジョルジュ・バタイユらと共に「アセファル」を名乗るカルト・グループに属していた。画家アンドレ・マソンが描いた「頭のない人間(アセファル)」の姿は、「頭」が象徴する「権力者」や「指導者」「独裁者」を拒否する、グループの思想信条を表現したもので、同グループの機関紙の創刊号には、キルケゴールの次の文が記されていた。
「政治の顔をしていたもの、あるいは、政治的なものだと思われていたものは、いつの日か、その仮面をぬいで、それが宗教的運動であったことを露呈するだろう」(アセファル「聖なる陰謀」1937年より)
この文が示唆するように、「アセファル」は、ナチスのファシズム政治に潜む「宗教的熱狂性」に対して、別の宗教運動で対抗しようとするものであった。岡本太郎はこう書いている。
「犯罪の意思によって結ばれたエリートの神聖なコミュニティー。新しい神は、夜の暗い混沌の中で死に直面することによって現出する。新しい宗教的体験が、われわれの情熱だった。当然、儀式が絶対の要件である。それによって共同の目的を確立し、犯罪者として、既成の権威に対決し、世界を変えてゆくのだ。」
バタイユは、人間の「いけにえ」を捧げる儀式の必要性を熱心に説いていたとされるが、最後まで他のメンバーたちの同意が得られず、第二次世界大戦直前にアセファルは活動を停止する。
今日、岡本太郎の「太陽の塔」については、ピカソの「キュビズム」を経由した、いゆわる「未開芸術」からの造形的な影響などが指摘されるが、それよりもはるかに重要なのは、「太陽の塔」が「アセファル」をよみがえらせるものだったということである。「太陽の塔」には、人の目をくらませる黄金の「顔」こそあるが、それは後からとってつけたようなもので(実際、岡本太郎は「太陽の塔」のマケット(模型)では、どこにでもあるような「なべのふた」を顔にしていた)、その原型となっているのは、アンドレ・マソンが描いた「無頭人」である。万博という国策イベントの中心にすえられた「太陽の塔」は、実のところ、国家主義的な政治体制を呪う巨大な呪物であった、と、かねてから、そう思っているので、うちの「太陽の塔」には頭がない。呪術的な装飾をしているのも、そのためである。
ちなみに、断首した頭は、ここにある。胴体はガチャポンのダビデ像。となりのクマは、旭川産の「くまぼっこ」である。
頭のない太陽の塔で、2016年のいま、なにを呪っているかは、もちろん、秘密である。