「アウグスト・ザンダー展」と同時開催されてた「ドイツ写真の現在」展のサブタイトルは、
「かわりゆく現実とむかいあうために」なのですが、というよりもむしろ、ドイツというところは
つくづく「かわってるなぁ」という、その国民的独異性と、その「かわらなさ」のようなものを
強く感じました。例えば70年代のジャーマン・プログレや80年代のノイエ・ドイチェ・ヴェレ
(ドイツのニューウェーヴ)に非常に顕著なように、ドイツというのは音楽にしろ政治にしろ
なんにしろ、なにをやらせても必ずヤリすぎてしまって、カッコよいのかクソださいのか
よくわからない、はみだしたものをつくってしまう、というこまったところがあります。
それが、たまたまうまくいくと、
ベッヒャー夫妻が撮ってるような、
テクノ好きにはたまらないかたちをした
インダストリアル・アーキテクチャーの
知られざる傑作を、つくるつもりもなく、
我知らず、つくりだしてしまうのですが、
その思いこみがあまりに激しすぎた
場合には、シュミットが撮ってるような、
ヤバいものをうみだしてしまうわけです。
今回の展示でいちばんおもしろかったのは、
そのシュミットの「統・一 U-ni-ty」という
インスタレーションで、狂気、革命、犯罪、
テロ、独裁、虐殺を暗示するような写真でもって
「この民族を見よ、そして注意せよ」とばかりに
「ドイツの独異なる暗部」とその集合的記憶を
見事に照らしだしてました。
でも、そんなふうに、自らの暗部にきっちりと、しかもクソまじめに、そして、しつこく、
向かいあえるところが「ドイツの偉大なる偏屈さ」で、それができなくなってるのが、
いまのアメリカではないかと思いました。あとは、グルスキーのパノラミックな写真と
デマンドのクラフツマン・シップあふれる工作写真がよかったです。いっぽう、
ティルマンスの写真がどうしてあんなに人気があるのかちっともわかりませんでした。
それはたぶんイルコモンズが偏屈だからだと思います。