
もう2週間くらい前の話になりますが、いつものように
NHKラジオの国会中継を聞きながら仕事をしていたら、
代表質問に立った野党の議員が、たしかこんなふうな
ことをいってました。
「えぇ、一般的に申しまして、一国の総理の
ふるまいや行動というものは、好かれ悪しかれ、
国民になにがしかの影響をあたえるものです。
そのうえで、いささか失敬なことを申しあげますが、
総理。総理をみておりますと、いわゆる一家団欒の
しあわせや家庭生活のよろこびのようなものをあまり
感じることができないのです....」(以下省略)。
こういうのはプライバシーにかかわる話なので、話はそこで終わったのですが、
これを聞いて、「ぁ、なるほど、いわれてみれば、たしかにそのとおりだな」と
思いました。構造改革にしろ民営化にしろ何にしろ、「いまやりたい、すぐやりたい、
自分がやりたい、そしてあとのことは知らない、自分は関係ない」というのは、
いかにも独身者的な欲望で、よくいわれるような「独裁政治」というよりむしろ
「独身政治」だなと思い、あのなんでもかんでもばっさばっさと切り捨ててゆく
「人情のなさ」や「親心のなさ」にもそれでようやく合点がゆきました。そして、
「国民の範となり、鏡となるべき一国の総理がそんなふうじゃ、それをみてる
国民だって....」と思い、次の総理が誰になるにせよ、独身者の総理だけは
もうこりごりだなと思いました。そうじゃないと、ますます非情な社会になりそうで、
こわいですから。ちなみにイルコモンズが暮らしてたアフリカの社会では、
「独身者」というのは、半ば冗談、半ば本気で、「ひとでなし」や「けもの」
のようなものだと考えられてました。
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[追記] 上の画像は、マルセル・デュシャン作「彼女の独身者たちによって裸に
された花嫁、さえも...」(別名「大ガラス」)の、贋作・永田町ヴァージョンです。
プライバシーに配慮し、ガラスに映りこんだ人物の両目はふせてあります。