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いる・こもんず 【普通名詞】 01| ありふれて変なもの 02| 扱いにこまる共有物 03| 分けても減らぬもの 04| 存在とは常に複数で他と共にあり、狂えば狂うほど調子がよくなる
はじめに、ふた、ありき

イルコモンズ編
見よ ぼくら
四人称複数
イルコモンズの旗
(Amazon.comで
大絶版廃刊中)
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▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部
【第二部】
▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_4152975.jpg
●問題は帝国はすなわち僕ら自身だということで、帝国のなかの私、
私のなかの帝国というふうにすら分節化できないくらい帝国と僕らの
存在は癒着している。僕らの身体は帝国に接続されていて、
帝国は僕らの快楽原則にたかることで栄えている。僕らの髪には、
帝国シャンプー、眼には帝国コンタクト、耳には帝国ウォークマン。
そして僕らの脇には帝国デオドラント、指には帝国ジュエリー、
胃には帝国ドラッグと僕らの全身は帝国にまみれている。僕らの
移動力は帝国エアの力だし、通信力は帝国テレコムの力、情報
検索力は帝国ネットの力で、僕らの金まわりは帝国ファイナンス
の力、そして僕らの愉しみは帝国ランドにある。そこに一つだけ
欠けているのは抵抗で、帝国にはレジスタンスのサービスがない。
もし帝国をこれ以上肥え太らせたくなければ、僕ら自身が日々の
生活の中でサービスに抵抗し、肥え太ることをやめなければなら
ない。云ってみればネグリとハートは生のダイエットを奨めている
わけだ。そのためには欲望を滅却しなければならない。買うゆえに
我ありというコギトから離脱しなければならない。帝国は僕らの
身体にこびりついた贅肉のようなものだから、ワークアウトする
ことで滅却させ、それを創造的で非物質的な労働のエネルギーに
まわして、新たな抵抗の底力となるバイオパワーに変換しなけれ
ばならない、ということのようだね。

■僕らにとってよりシビアなバイオポリティクスの話をしようか。
『帝国』にコンピュータの話は出てくるけど、携帯電話の話はあまり
出てこないね。インターネットに関する議論の中でちょっとふれられ
ていくらいだけど、目下の僕らの生活のなかで最も強力なバイオ
ポリティクスのマシンは携帯電話だね。あれは身体に直接ふれる
ものだし、脳に繋がるものだ。何より移動する個人に働きかけ、
場所と時間を越えたコミュニケーションのサービスを提供してくれる。
メールの送受信から画像の転送、着信音の提供までサービス満点。
いまどき携帯電話を持ってないとマイノリティー扱いされるし、
必要のないコミュニケーションの飢餓や疎外を煽っている。
無用なトラブルや犯罪が後をたたないけど、僕らはもはや携帯
電話のない生活に後戻りできなくなりつつある。携帯電話を
紛失した時のパニックやショックときたら大変なもので、情報や
記録だけでなく、欠けがえのない生活の思い出まで失くしたような
気がするというからね。

●電車に乗ると乗客の半分くらいがじっと下をうつむいて自分の
携帯電話をいじくっていることがある。さながら熟練工のような
指さばきでメールを点検し、返信し、情報をこまめに整理して
いるのを見ると、この寸暇を惜しまぬ勤勉な労働が帝国の通信
事業を支えているんだな、とつくづくそう思ってしまうよ。それに
もし万が一にでも携帯電話の携帯が強制され、政府や警察、
司法機関の管理の手に落ちたらその力は恐ろしいものがあるね。
いつどこにいたか誰と連絡をとったかも全部バレてしまう。
それこそ何物も携帯電話から逃がれることはできないなんて
ことなったら、恐ろしくないかい。

▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_23142100.jpg
■ネグリたちが日本の携帯電話事情に通じていたら、多分そこが
降りどころの一つだと云うだろうね。帝国の搾取と管理のシステム
から身を逸らすとすればそこだろうし、不服従と抵抗を表明すると
すればやはりそこだろう。それこそ君がやったみたいに携帯電話
を電磁波ノイズの発振器にして電子楽器の一部にしてしまうのは、
電話会社からすれば商品の明らかに間違った使用法で、もし
それで電話が壊れても修理してくれないだろうけど、ある意味
それは携帯電話を使った創造的な非物質的労働で、通信以外の
非正規的な使用で帝国の貴重な社会資本である電話を雑用化し、
もてあそんでいるという風に見れば、帝国の支配へのささやかな
抵抗になってたわけだ。

■ただ、あれを展示した時は電磁波の人体への影響の方に人の
関心がいったようで、そういう風には見てもらえなかったけど、
狙いはそうだったんだ。いずれにせよ、こうした抵抗は展示や
実演という社会的デモンストレーション行為が伴わなければ
あまり意味がなく、それをやってはじめて協働の可能性も
生まれてくるわけだからね。

●さしあたり携帯電話に関して良いニュースと悪いニュースという
ことで云えば、良いニュースは携帯電話が国家や警察の手に
落ちてないということで、悪いニュースは携帯電話はそうした
旧式の管理が追いつかないくらいのスピードで進化している
ということだ。そして最悪のニュースは、僕らがもはや携帯電話
のない生活に後戻りできなくなりつつあるということだろうね。

■ネグリたちは帝国の中心には真空地帯があって、マルチチュード
の抵抗はそこで起きるという。携帯電話ひとつとってみても、その
オルタナティヴな使用法を発想する創造的労働の余地は残されてる
と僕は思う。もっともこれはニュースではなく希望的観測だけどね。

●ここでもう一度、話をマルチチュードに戻すと、ネグリとハートは
マルチチュードの最重要人物としてアッシジの聖フランチェスカを
ひきあいにだしてるね、それも本のいよいよ一番最後のところで。

■『ミルプラトー』は、強度になること、動物になること、女子供に
なること、という奇怪な生成変化のレッスンに満ちた本だったけど
『帝国』で新たに追加された最新の生成変化のレッスンは、貧者に
なること、貧乏になること、というのが、それのようだね。

●汝、自らを富ませよ、というのが帝国の至上命令だとすれば、
たしかに有効なレッスンかもしれない。昔から「貧すれば鈍す」
とか「貧すれば貪す」と云うけれど、考えてみれば、これは、
モダニズム時代の帝国の富国強兵的なイデオロギーだからね。
それに対してネグリたちは、貧すれども純さず、貧すればこその
抵抗を、と呼びかけているわけで、ネグリの次の本でも貧者
への期待が語られている。なかでもきわめつけは「貧者は
地上の神である」というフレーズだね。

▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_2415561.jpg
■それ以外にも、不屈の抵抗者たちの群像として、メルヴィルの
バートルビーやクッツエーのマイケル・Kがひきあいにだされている。
そうしたマルチチュードたちの影を慕いて、そのオルタネティヴと
なれ、そしてそれを超えよと、ネグリとハートは云う。たとえそれが、
フランチェスカのような古い時代に生きた人間であろうともね。
オルタナティヴということについてネグリはこう書いている。

 オルタナティヴはつねに<古いもの>へのある種の暗示、または、
 <古いもの>との類似を含んでいる


●そこで君に聞くけど、マルチチュードの影を感じ、その影を慕い
たくなるような人物をあげるとしたら、誰がいるだろうか。

■清貧といえばダダカンだね。ダダカンは今も健在で、仙台でタン
ポポを食べながら裸の貧乏暮しをしている。ダダカンのモットーは、
働かざること、他人より笑われること、向下を旨とすることだ。

●帝国の手先たる通貨の破壊者という点でもそうだね。何物も通貨
から逃がれることはできないが、ダダカンは通貨を理解しない。

■ダダカンは日本の前衛美術が異様な熱気を帯びていた六〇年代に
その中心から外れたところで独自の表現活動、主に裸のパフォーマ
ンスをやっていたんだけど、七〇年代になると紙幣を焼却すること
に没頭しはじめ、僅かな収入と極貧生活の中から捻出した金に火を
つけ、焼け焦げたお札を作品(?)としてあちこちに送りつけるように
なった。それ以外にも紙幣を服に縫いつけたりもしていたそうだ。

●まるでネグリとハートが描く、蓄めよ殖やせよ、我は預言者なり、
と通貨を身にまとって地上に現れるバイオポリティクスの使者のア
イロニカルな肖像みたいだね。

▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_2514666.jpg
■紙幣といえば、あともうひとり、七〇年に模造千円札事件で有罪
になった赤瀬川原平がいるけど、その赤瀬川が、ダダカンから燃え
た一万円札を送られた作家がそれを見て心底ゾッとしたという話を
聞いて、そのゾッとした理由についてこう書いている。

 その「ゾッ」というのは、芸術をはるかに越えてしまったところの、
 しかも越えながら芸術のまったくの中心点にささるところの、
 「ゾッ」であろう。


■これにならって云えば、ダダカンがやってみせたことは、時代を
はるかに越え、しかも越えながら新たな帝国のまったくの中心点に、
それこそゾッとつきさささっていたといえなくもない。当時の警察の
言い方をすればダダカンも赤瀬川も「思想的変質者」だけど、そう
いう昭和の変質者たちにこそマルチチュードの影を強く感じるね。

●ダダカンついでに云えば、七〇年の大阪万博でダダカンが万博の
シンボルだった太陽の塔に向かって全裸で疾走してつかまった時に
その太陽の搭の目玉に篭城していた通称・目玉男もひっかかるね。

■万博が帝国主義の祭典だという点でもたしかにひっかかる。

●その場合の帝国は、旧帝国だけど、七〇年の万博については
やや話が複雑なんだ。そもそも七〇年の万博は遅れてきた万博で、
敗戦後の日本が国際社会への復帰を宣言するインターナショナリズムの
イベントでもあったが、それは同時に敗戦国日本が国民国家としての
再生を国民にむけてアピールしてみせる国民国家の祭典でもあった。
つまりそこでは二つの政り事が凝縮された格好で行われたわけだが、
これにはさらにまだ続きがあって、江藤淳はこう書いている。

▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_4411788.jpg 万博とは巨大な遊園地であるが、
同時に人間動物園であることを
私は悟らざるを得なかった。
見物人はもちろん放し飼いの
動物である。各国のパヴィリオンは
いうまでもなく檻であり、そこに行くと
いろいろ毛色の変ったのが実地に
見物できる。人をもってこれをみたせば、
千里丘陵は巨大な国民教育の場と
ならざるを得ない。政府のねらいは
ここにあったのかも知れない。
いながらにして五千万人に一種の
国際的経験を味わせ、資本の自由化の
予行演習をさせること。


■そこで云われてるように大阪万博には日本の約半分にあたる国民
が集結した。後にも先にもこんな例はなく、国際博としても国家行事
としても未曾有の大成功だったが、それは江藤淳がいう資本の自由化
の予行演習や国外資本への呼びかけとしても破格の大成功を収めた。
これが3つめの祭り事で、やがてグローバルな資本主義の帝国の中へ
編成されてゆく日本の歩みが始まったのは七〇年の万博を機にして
だと思うんだ。身近な例でいえば、ケンタッキーフライドチキンの
第一号店がオープンしたのは万博会場で、これは大当たりした。
マクドナルドがオープンしたのはこの翌年だ。いつでもどこでも同じ味の
同じ物を食べられるというか、食べさせられる、帝国レストランの
サービスとその管理の中に僕らが吸収されていったのはこのあたり
からだと思うんだ。万博のテーマは「人類の進歩と調和」だったけど、
今にして思えばそれは新たな帝国への進歩と融和だったのかもしれない。
七〇年の万博が未来の夢の生活として描いたテクノロジーとコンピ
ュータのとりこじかけの生活は今まさに僕らが生かされている新たな
帝国生活だったように思えて仕方がないんだ。

●『帝国』の中でも、一九七〇年代の初頭は資本主義諸国が工業
生産からサービス産業へと経済構造をシフトさせていった時期として
特にマークされているね。

▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_2583213.jpg
■だから、云ってみればダダカンは、万博で狂騒的に予行演習された
未来の帝国のどまんなかを貧者さながらの裸一貫で横切ってみせ、
かたや目玉男は転落すれば間違いなく即死の地上70メートルの
シンボルのてっぺんで、さながら貧者のように7日間飲まず食わずの
断食の抵抗を続けた。つまり二人はそれぞれ武器も何も持たず、
体ひとつの体あたりで、万博が描いて見せる未来の豊かに管理
された悪夢のような生活に異議を唱え、一瞬とはいえそこに抵抗の
連帯が生まれた。まるで来たるべき未来の帝国に対する抵抗の
予行演習のようにね。僕はこの二人の抵抗に何か情動の動きの
ようなものを感じるんだ。マルチチュードのモナド的な行動が、
指導者も組織もなく、波状的に連結して渦となり群れとなり、
抵抗の連帯を形成するのは、計量不可能な情動のはたらきあいを
通じてではないかと思うんだ。もっともこれはカネッティが「群れ」を
論じた時に云ってたことではあるけれど、情動の論理で決起し、
情動の共感で連帯するのがムルチチュードたち抵抗運動の姿
なんじゃないかと思うんだ。少なくとも二十一世紀の民衆が
イデオロギーや思想で行動し連帯するとは考え難いからね。
ちなみに目玉男は後の裁判でこう陳述している。

▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_4194419.jpg万博はその技術万能主義をもって、
人間の生活から文化を疎外し、
ことさらに新奇をてらった怪物的
建築と見世物展に奇形し、矮小化し、
創造的文化の破壊をおこなった。



■目玉男が太陽の搭を占拠した時、彼は赤軍の文字がはいった
赤ヘルを被っていたんだけど、実は赤軍派のメンバーでもなんで
もなくて、それは一種のコスプレだった。実際、この陳述を読んでも
その手の思想の臭いがしない。目玉男はこの事件以前にも札幌で
道庁の国旗を焼打ちしたり、広島大学のロックアウトに参加したり、
帯広で学園闘争を支援して逮捕されたりという具合に、各地を転々
としながらその行く先々で飛び入り的に運動に加担している。
もともと全国を放浪しながら詩をつくるために仕事を辞めたという
ぐらいだから活動家というより詩人の情動で行動する漂泊者なんだ。
彼は太陽の塔に篭城した時に四冊の本を携帯していたが、それは
『共産党宣言』でもなければ『擬制の終焉』でもなく、彼が携帯して
いたのは和辻哲郎と葉隠と万葉集、そして、萩原朔太郎の詩集だった。

●ずいぶん分裂した組み合わせというかアレンジメントだね。萩原
朔太郎といえば、永遠の漂泊者のアイコンだけど、その朔太郎は
「古風な博覧会」という題のこんな詩を書いてるね。

 透き通った硝子張りの虚空の下で
 あまたのふしぎなる建築が格闘し、
 建築の腕と腕とが組み合ってゐる
 このしづかなる博覧会の景色の中を
 かしこに遠く正門をすぎて
 人人の影は空にちらばふ。
 なんたる夢のような群集だらう。


●もし目玉男が太陽の搭のてっぺんで手持ちの詩集の中にこの詩を
認めたなら、朔太郎のエクリチュールと我が身とのアレンジメントに
強烈な情動を覚えた筈だ。というのも目玉男の眼下には丹下建造が
設計した透明のプラスティックを張りめぐらせた巨大な大屋根が
広がっていたわけで、その周りにはあまたの連結されたメタボリズム
建築が遥かに睥睨されたわけだから。まさに怪物的建築と見世物、
そして夢のような数の群衆がそこにいた。朔太郎はこう続けている。

 さうして西暦千八百十年頃の仏国巴里市を見せるパノラマ館の
 裏口から人の知らない秘密の抜穴「時」の胎内へもぐり込んだ。
 あゝ、この消亡をだれが知るか?


●太陽の搭の内部にはアメーバーから人類誕生までの進化の歴史を
見せるパノラマ式のツリーがあって、そこは人間の進化という時の
胎内だった。僕は万博から三〇年後に太陽の塔の中に入って目玉男
がもぐり込んだルートを辿ってみたことがあるんだけど、それは文字
通り秘密の抜穴のようだった。詩人の情動で行動する目玉男は
朔太郎の詩と我が身とをアレンジメントした文学機械になり、一種の
忘我の境地あるいはトランス状態の中で久遠の未来を夢想しながら
塔にとどまり続けたんじゃないだろうか。地上70メートルの戸外で
7日間飲まず食わずというのは人間業ではないからね。そして
ドゥルーズたちが云うように、目玉男は不動という速度を持った
動かない者となることで文学機械から抵抗するノマドへと生成変化を
遂げたとはいえないだろうか。無論、夢想や変身の消亡は知る由も
ないが、写真に残る目玉男の顔は何とも不思議な歓喜に溢れてないか?

■かたやダダカンはというと、前衛芸術家と俳人の情動で決起する
裸のミリタントだ。戦時中は陸軍の戦車兵として従軍していたというし、
戦後最初の国民体育大会に体操選手として出場したというくらい
だから運動神経は人並み優れている。ダダカンはその選れた肉体
能力と性器をアレンジメントして自ら戦争機械になった。武器も何も
持たずペニスひとつぶらさげた人間戦車に生成変化し、シンボルで
ある太陽の搭に向かって突進してみせたわけだ。

●そんな風に目玉男とダダカンはお互いの意図や計画を全く知らず、
てんでばらばらに行動した。しかも二人は既成の反博運動や赤軍派
に属さず、その異分子として斜めの方角から万博のどまんなかを
奇襲した。彼ら二人は、というより、二匹は、思想やイデオロギーで
動いたのではなく、万博に対する本能的な情動から行動を起こし、
それぞれに独自のアレンジメントを遂げ、かたや戦争機械となり、
かたやノマドとなって、そこでハプニング的に抵抗の群れをなした
んじゃないだろうか。

■ついでに云うと岡本太郎は、当時の全学連の運動には否定的
だったが、この目玉男には「イカすね、ダンスでも踊ったらよかろうに」
とエールを送り、レイブを呼びかけている。

▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_431690.jpg●イカすという反応はすぐれて情動的なものだ。
もともと岡本太郎はパリ時代にバタイユたちと連帯して
アセファル団の儀式や運動に加担していた魔術師の
弟子だから、太郎は太陽の搭をいただく国家の祭典が
かつて未遂に終わったコントル・アタックの代補の場と
なることを密かに望んでいたんじゃないだろうか。
太陽の塔の下のお祭り広場を設計した磯崎新も
六八年のミラノでのような占拠事件が起こるのでは
ないかという期待があったと後に語っているし、こう
してみると、みんながそれぞれに、万博を前にして、
分裂している。

■ドゥルーズとガタリにならって云えば、二匹それぞれが、あるいは
三匹それぞれが、戦争機械として、ノマドとして、魔術師として、
分裂した数匹であったから、それだけでもう多勢となり、マルチ
チュードの群れと化して、ほんの一瞬とはいえ、未来の帝国の
予行演習のハレの舞台に亀裂を生じさせたといえるかもね。
少なくとも、この群れの前に、未来の管理は一瞬、空転したはずだ。

▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_6184095.jpg
●甚だルーズな連帯だけど、でも実のところネグリたちは、マルチ
チュードの構成的な力を形成するのは熱情や情動そして知恵の
結集によってだと云っている。そこがネグリとハートの議論の穴や
弱さだと云われかねない部分だが、逆に云えば新しさでもある。
確かに情動による決起とその連帯は偶発的であてにならないもの
だけど、それだけにイデオロギーや思想のように統制もできなければ、
コンピュータによる予測も管理もできないものだ。計量不可能な
情動的連携のでたらめさと行動の野蛮さが逆に強みだともいえる。

■モナドの連帯についてドゥルーズはこう書いてるね。

 そこではふたつのモナドがそれぞれに、相手のパートを知らず、
 聞くこともないまま自分のパートを歌うのだが、にもかかわらず、
 完全に調和するのである。


▼見よ ぼくら 四人称複数 イルコモンズの旗(WEB版) 第二部_d0017381_485078.jpg
■そんな風に僕は、ダダカンと目玉男が万博に対して構成した抵抗の
ブロックにマルチチュードの群像とその影を感じるんだ。もっとも
それが起こったのが万博というハレの場であったこともあって、
搭の下からカッコイイーという情動的な声援を送った子供たちと
一部の美術評論家を除けば、それ以上の連帯はなかったんだけどね。

●子供といえば『帝国』の巻頭句にも引用されているW・モリスは、
子供の頃に万博見物に連れてゆかれ、そこで見た目くらましの
デザインに激しい嫌悪感を覚え、入場することを嫌がって会場の
入口で座り込みの抵抗をしたという逸話が残っている。おそらく
ダダカンと目玉男もそういう情動につき動かされたんじゃないだろうか、
つまり二人はそこで二匹の子供に生成変化し、野蛮児の情動で行動した… 
(つづく)
by illcommonz | 2006-03-30 01:17
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