
食べ物のことで一度も羽目をはずしたことがないという人は、そもそも
食事というものを経験したこともなければ、また、これまで食事をしてきた
とさえ云えないだろう。節度をわけまえた人が知ることができるのは、
せいぜい食事の愉しみくらいのものであって、そういう人は、食べものに
対する貪欲さや、単純な食欲から逸脱して物をむさぼり喰らうという
原始の森につながる道を決して知ることはない(ヴァルター・ベンヤミン)
豊田市美術館の
「内なるこども」展で、高山辰雄の「食べる」(1973年)という絵を見て、
ベンヤミンのこの言葉を思い出しました。高山自身は「子どもが無心に食べている姿を
見ると哀しくなる」と語ったそうで、カタログの解説にも、こんなふうに書いてありました。
「"食べる"は生命"感"の縮図であり、そこには苦しみにもだえながらも、なおも生き
続けたいと願う人間の悲しみと寂しさが横たわっている」
でも僕がこの絵から感じるのは、哀しみでもなければ寂しさでもなく、いくら食べたって
どうせまたおなかが空くに決まってるのに、その"いきもの"としての運命に逆らって、
今日もまた、ものを食べて生きてゆく人間の"抵抗としての生"のあり方みたいなもので、
高山のこの絵が好きなのは、近代の理性や常識によって飼い慣らされた大人たちが
見失ってしまった「原始の森」につながる道を、この野蛮児のようなこどもの姿が
照らし出してくれているように見えるからです。

かつてはみんなこどもだった。だから、資本や生活習慣に
飼い慣らされていない、こうしたこどもの野生のコモンセンス
(共通感覚)を、まだどこかにもってるはずで、高山の絵は、
その眠りこけている感覚を目覚めさせてくれるような絵です。
「衣食住」の商品化とグローバリゼーションが進むなかで、
まずまっ先に自分たちの手にとり戻さなければならないのは、
「食」だなと思ってます。まずは、こどものころに感じた、あの
空腹感。一点のくもりもない青空のような底抜けのはらぺこ感。"それに勝る
調味料はなし"といわれる空腹"感"を自分でセッティング(そんなの誰でも
できる)のがまずはスタートで、そうすれば人間らしく、そして野生的に、
自分の手でつくったものを、こうやって手づかみで食べるようになるだろうし、
またそうなれば自然と顔もこんなふうにリセットできるはず。
「内なるこども」展では、この他にもまだたくさん、いい絵やいい写真をみることができ
ましたが、まずは一番好きな高山のこの絵から。
[追記] 上の写真は展覧会とはなんの関係もないものですのでご注意。