![]() はじめに、ふた、ありき
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「前にならえ、右むけ右、ピーー」の静かな号令が鳴りひびく、いまの
この時代に、かつて、軍国主義やファシズムに反対して死んでいった 過去の政治思想家や自由主義者たちが書きのこしていったものを、 いまさらながら、いそいそと読みなおし、人に「読め」とすすめてみた ところで、なんだかもう間にあわないような気がする。云ってることや 書いてることは、あいかわらずただしいとは思うけど、いまの状況では、 どれも「ハイセオリー」すぎる気がする。いま必要なのは「ローセオリー」 であり、強度のある批評とポータブルなフレーズ(悪態もふくむ)だと思う。 全集や本をのんきに精読しているひまはなく、いま、必要とされている 知性は、ナンシー関のような知性だと思う。「もし、いま、ナンシー関が、 生きていたら、彼女なら何と云うだろうか」。そんなことを考えながら、 生前ナンシーが、消しゴムに彫ることのなかった人物たちの顔を ナンシー風に版画してみた。 ![]() 「人類学者になりそこねた作家と行動する思想家たちの消しゴム版画」 ![]() ナンシー関の鋭い観察眼と批評精神、 そして、その卓越した文筆力について、 評論めいたことを書くのは野暮だし、 なによりナンシーに「けっ」といわれそう なので、いまは書かない(これからも ずっと書けないような気がする)。 そのかわり、ナンシーの青森の実家には、たぶん「暮しの手帖」があって、 彼女もそれを読んでたんじゃないだろうか、と思わせる文章があるので、 それをここに書きうつすことにする。「暮らし」のなかから生まれてくる 「ローセオリー」というのは、こういうものだと思う。 ................................................................................................. ナンシー関 「ちゃんとした生活、それはものを腐らせない暮らしだ」(ほぼ全文) 親元を離れて一人暮しを始めたとき、あることにショックを受けた。それは、 ものがどんどん腐っていくことだ。いや、「ショック」というより、「驚愕」という 大仰な漢字で表した方がいいかもしれない。 初めての驚愕は味噌汁だったように記憶する。鍋の中の昨夕の豆腐の 味噌汁が、朝、腐っていたのだ。たしかに真夏であった。しかし、忘れて 放っておいたわけでもなく、同じ味噌汁を2回の食事で食べきるというのは (私としては)ごく普通の生活なのに、「腐る」ということで、その生活が 妨害されるなどとは思ってもいなかったのである。 腐った味噌汁を流しに捨てながら、まだ私は半日足らずで物が腐るという ことが信じられずに、「最初から豆腐が腐りかけていたんじゃないか」などと 首をかしげていた。 実家にいた頃、前の食事の余った味噌汁はいつも鍋に入ってコンロの上に あったし、その横には、おひつに入ったごはんも置いてあった。カレーや シチューなども4~5日はそうゆうふうに置いてあったものである。土曜の 昼食に火曜日の晩のカレーを食べることなど、ごく当たり前のことだった。 しかし、一人暮しをしてみると、火曜日のカレーが金曜日に腐っている。 作った当日より、日が経つにつれ、おいしくなるとばかり思っていたあの カレーがよもや腐るとは。驚愕以外の何物でもない。 しかし、私がいくら驚愕しようとも油断していると、ものは腐るのである。 味噌汁を腐らせ、カレーを腐らせ、白飯を腐らせ、肉豆腐、カニかまぼこ、 すいか、麦茶、クリームパンとあらゆる物を腐らせるたびに、いちいち 驚愕していたのだが、そのうちようやく、ものが腐るということを現実として 受け取ることができるようになった。 そして私が心に刻んだのは「冷蔵庫に入れないと、ものは腐る。しかし、 それはここが東京だからだ」という教訓だ。東京というのは、ものが腐る ところだから用心しなければ。都会暮らしの知恵を学んだつもりになって いたのだ。 鍋の中まで入り込み、かつては防腐剤としても活用されていたという 各種香辛料のガードをものともせずに、カレーの肉やじゃが芋をてきめんに 腐らせる東京の暑さ。私は敵である暑さから我が子を守るように、味噌汁を 鍋ごと冷蔵庫へかくまった。そうやってなんでも冷蔵庫へ入れれば、 「腐る」という日常生活の妨害から守ることができると思っていたら、 冷蔵庫の奥の方で、高野豆腐の煮たやつとかポテトサラダが「ダメ」に なっていたりする。食べものは冷蔵庫に入れようが入れまいが腐らせて 捨てるか、腐る前に胃に収めるか、なのである。そう思った時、 「東京の暑さ」というのは、私が自分を正当化するために創り出した 幻の敵かもしれん、と思ったのだ。 私はものを腐らせることを「恥ずかしい」と思っている。なにかを腐らせる たびに「ちゃんとした生活をしていないからだ」と責められているような気が するのだ。本当は別に「ちゃんと」したいわけでもないし、いや、何をもって 「ちゃんと」とするのかも分からないのだが、ものを腐らせることは生活と いうもの自体をやりこなせていないということで、屈辱なのである。 私は整理整とんの類も苦手だが、たとえば、本を本棚に戻さず床に放って おいても、それは私の勝手であると堂々と言える。しかし、ものを腐らせる ことは申し開きの立たない過失である。 実家の生活を難なくやりこなしているのは母である。その「難なく」ぶりは、 まるで何もしなくても生活が回転しているようにさえ見えた。当然それは そうではなく、火曜日のカレーを土曜の昼に食べるためにはその間、毎日 1回火を通していたり、ごはんの入ったおひつにフタをしないでふきんを かけておいたり、冷蔵庫の奥の常備菜も味の変わらないうちに食卓に 出したりということを、生活としてやりこなしていたからなのである。 とは言いつつ、今夏もすでにいろんなものを腐らせた。チューブ入りの おろししょうががダメになっていたのには驚いた。フタが半開きだったから だろうか。ちゃんとしよう。 ナンシー関「ちゃんとした生活、それは ものを腐らせない暮らしだ」 「読者の広場 新刊ニュース」 1994年9月号 .............................................................................................. まるで花森安治が書いた作文のようである。ところで、この「申し開き」とは、そもそも なに対するものなのだろう?また「過失」とは、なにに対する罪なのか?そして、 腐らせてはならない「もの」とは何か?たべもの、いきもの、そこに宿る何か? ナンシーのこの暮らしの倫理は、近代が「前近代的なもの」としてきり捨ててきた 何かとつながりを保っているように思える。そしてそれは彼女がときおり書く 「バチ」というものとも響きあってるような気がする。ナンシーはこう書いている。 「文化財は大切にしなければならない。しかし、旅行の記念にと大事な 文化財に彫刻刀とかで相愛傘などを彫ってしまう大馬鹿者がいる。 そいつらは「バチ」というものを考えないのか。「バチ」が怖くないのか。 バチといえば、近藤政彦の母親の遺骨を盗んだ犯人まだ捕まらない ようだが、こいつが警察よりも何よりも怖れなければならないのは、 「バチ」だろう。「バチ」をあなどると痛い目にあうと思う」 ナンシー関「けしごむ歳時記」 「バチがあたるぞ」という感覚は、単なる道徳ではなく、れっきとしたひとつの コスモロジーであり、精神のエコロジーであって、単なる物資のやりとりに 限定されない「全域的な贈与経済」は、こういうコスモロジーによる支えが ない限り、かならず失敗すると思う。地域通貨がうまくいかない理由も たぶんこのへんにあるはずだと思うのだが、それについてはまたいずれ 書くとして、それとはまた別に、それほど遠くない未来の誰かに対する 「申し開きの立たない過失」として、いま僕らが腐らせようとしているもの がある。以下はそのリストである。リストは時系列順になっている。 ちゃんとしよう。 [このまま放っておいたらもうじき腐るもののリスト] ・教育基本法 ・日本国憲法 ・自由と平等 ・民主主義 ・こども ・愛
by illcommonz
| 2006-11-19 00:13
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