要するに、現代美術家や、文化人類者である、というのは、こういうことなのかも。

つまり、どちらも「異なるものにこそ価値がある」と考える「異なるモノ好き」なの
である。そしてこの「異なるモノ好き」をこじらせて自ら「異なるもの」になったのが、
どうやらイルコモンズらしい。それを標語にするとこうなる。
「イルコモンズのイは異なるもののイ」
そして、よくみれば、その「異」という文字は、「共」によって支えられている。
つまり、あらゆるものごとはすべて「共に異なるもの」であるのかもしれない。
ふむ。
そういえば、こないだ死んだクリフォード・ギアツが、文化人類学者というのは、
「現場にいるネイティヴのひとたちの肩越しにものを見る者だ」と書いてたけど、
その惰性的な立ち位置の向きを変えて、「異なるものの側から異なるひとたちの
肩越しに話す、自らもまた異なる者としての文化人類学者」というのもあっても
いいなと思った。いまだ書かれざるその実験的民族誌の題名はこうなるはず。
「ストレンジャー・ザン・ネイティヴズ」
あるいは、
「ダウン・バイ・ローセオリー」
か。